端午の節句も過ぎ

 前にも書いたが,私には肺炎の既往歴があり,四月一杯は人の多いところに出かけるのを控えていた.昨日は久しぶりに梅田解放区に参加してきた.定例第2土曜,5月は午後1時からやるとのことで,1時過ぎにゆくともうはじまっていた.いつものようにこちらは喋らず,一緒に街頭に立つ.この時期,語る人は多く,3時半過ぎまでやってきた.3人が,一人は医者に配られる防護服,一人が看護師に配られた雨合羽,一人がゴミ袋で作ったのをきて,何でこうも違うのかと、訴えていた.
 彼らは11日は大阪市役所前で訴え,市庁舎に入り,市長の記者会見にも出くわす.こちらは地元で用がありいけなかったが,若い人らのがんばりには期待したいし,またこちらも勇気づけられる.
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 大阪の吉村知事がよくテレビなどに出ている.安倍の後にと一部ではもてはやされている.しかし彼は,住吉市民病院をなくすなど大阪の保健所を半減してきた人であり,慰安婦像のことでサンフランシスコと友好都市を解消した人であり,何より武富士のもと弁護士である.維新が自民に取り込まれて大阪が全国化する.これを許すな,みなそのことを語る.

  アベ政治の下で,日本はかつてない没落をしている.その現実は次のようなものだ.以下は2020年4月の『日刊ゲンダイ』による.
 1人当たりGDPの世界順位でも,90年代は常に1桁で2000年には2位だったのが,安倍政権になってからは,民主党政権時代の10位台から一気に下降し,18年は26位.アジア・中東では7位.1位マカオは日本の2倍,3位のシンガポールでも1・6倍もある.
 日本の大学はアジアだけで見ても(タイムズ・ハイヤー・エデュケーション・ランキング),10位に入るのは8位の東大のみ.20位でも,中国6校,韓国5校,香港5校と比べて日本は2校である.経営大学院(MBA)の世界ランキングでも,100位までに日本はない.
 最近の調査(科学技術振興財団)では,先端151分野の有力論文数の各分野1位は全て米国と中国だった.日本は2位に入る分野さえなく,5位以内に入れたのもわずか19分野.最重要分野といわれるAIでは,世界10位と大きく遅れている.
 世界で競争できない理由の一つに英語力の欠如があるが,こちらも,調査対象100カ国中,日本は53位(EFEPI英語能力指数).アジア25カ国中でも11位.韓国6位,ベトナム7位,中国9位より下である.
 情報通信技術(ICT)を利用した教育を頻繁に行う中学教師の割合は,1位デンマークの90%に対して,日本は18%.経済協力開発機構OECD)加盟国等47カ国中46位である.
 先日LINEとYahoo!の統合でGAFAを追撃という話があったが,2社の研究費合わせて年間0・1兆円に対し,アマゾン2・5兆円,グーグル1・8兆円,アップル1・3兆円であり,日本トップのトヨタでも1・1兆円でアマゾンの半分以下である.

 この記事があげている指標において,間違いなく日本は没落し続ける.しかし,これらの指標はつまるところ資本主義の価値そのものである.徹底して没落したところから,資本主義の指標に変わる別の価値基準,それはつまるところすべての人を,人であることにおいて,等しく尊厳しあい認めあうことができるかであるが,異なる基準でこの世を作り直さなければならないのだ.

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 この間,仕事で神戸に行き,配信する授業の映像を作成した以外は,地元にいていろいろ考え文章も作ってきた.数学の他では,『根のある変革への試論』である.
 ここでは,近代日本を,世界大の資本主義化という普遍的な枠組の中で,その日本における固有の問題をとらえている.これは,非西洋における問題の一つであり,この固有の問題を掘り下げることで,資本主義というものを具体的にまた経済関係を越える問題としてとらえることができる.これからいろいろと意見も聞いて掘り下げてゆきたい.
 この一文を書くことで,散歩をしていても,目の前の光景に前とは違う何かが深まっていることに気づく.この感覚を大切にし,それにも導かれてもう少し深めることができればと思う.

 数学の方ではガロア理論を勉強している.『数学対話』に書くのはまだまだである.実際やってみると,これまで曖昧なままにしてきたことの多いことに気づく.お前は数学を,整数論を専攻したのではなかったのかと、自問する.当分勉強である.
 2枚目の写真は手振り地蔵の後ろから.11日撮る.

四月下旬

 もう四月下旬である.桜の花も散り,藤の花の時節である.地元の神園公園の藤棚がきれいだ.

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 次の写真は広大な満池谷墓地の中にある手振り地蔵.青銅製でかつてはもう少し北にあったが、阪神地震の時に一度倒れ,ここに移された.よく犬を連れて横を通る.いわれはよく知らないが,味わい深い.
 向こうに見えるのは甲山である.その次の写真は30日追加のカラーと,2週間前に撮った裏の隅に咲く射干(しゃが)の花.今もまだ花は咲いている.

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  さて,原子力緊急事態宣言は今も続く.そして,コロナウイルスの緊急事態宣言が重なる.まさに二つの緊急事態が日本列島を覆っている.
 アベ政治は,原子力緊急事態宣言によって,福島では20ミリシーベルト以下であれば帰還するように促してきた.これがなければ1ミリシーベルト以下である.そして原子力緊急事態宣言下で「復興五輪」をやろうとしてきた.コロナウイルスの蔓延による延期は,「アベ政治は何を考えているのだ」という天の怒りの声でもある.
 コロナウイルスの蔓延はいつまで続くのか.まだそれは見通せない.このウイルスの蔓延が,人類に新しい問題をつきつけたことはまちがいない.
 「人新世」という地質学上の概念がある.地質学の時代区分で,人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与えるようになった段階を意味し,それは一九四五年のアメリカの核実験を起点としている。今回のコロナウイルスの蔓延は、まさにこの人新世に起こったのだ.地球温暖化問題や核兵器根絶問題を放置してきたことに対する生態系の側からの揺り戻しそのものである.資源開発、人口増加,航空機の発達,経済活動の増加など動物居住地域と人との接触が増え,これからも新しい疫病が現れ,それは瞬く間に拡散する.
 日本のアベ政治は,感染症医療分野の利権がらみで必要な検査さえしない.その結果手遅れとなって,救える命も救われない.生活と事業への補償もまったく手薄で遅い.何のための政府だ,ということである.そして彼らの本音はここでもまた自己責任だ.このままではまだまだ犠牲が広がる.
 今回の疫病の蔓延は,こんな政治を一日も早く終わらせ,すべての人の尊厳と命と,そして環境を守ることを第一とする世に転換してゆかねばならないと言っている.それは歴史の要求なのだ.そして,歴史が求めることは,実現可能なのである.

 4月11日に,この間にやってきたいこととして,三つあげた.そのうち『解析基礎』の「複素解析へ」をまとめることができた.高校範囲としてはここまででよい.
 また,これまで書きためたものを整理したいと考えていた.それは『根のある変革への試論』としてまとめることができた.ここに置いて,読みかえしながら手を入れてゆくつもりだ.根なし草の日本近代を,世界史の中においてみることによって,問題に普遍性があることがわかり,これを書いて少し代の見え方が動いたようにも思う.
 次は「ガロア理論」である.これは少し勉強したい.『数学対話』のなかにガロア理論を入れることが,一つの目標なのだが,そこまでいけるかどうか.着手するところまでゆけばよいと考えている.(5月1日追記)実際に書いてゆこうとして,フォルダを開いたら,2017年の4月に書きはじめていた.忘れていた.ラグランジュの方法について書きはじめていた.アーベルの証明の手前で止まっている.構成を含めて,もういちど考えたいが,これは生かしたい.(5月2日追記)読みかえして論理の甘いところがあった.これをふくめて明日から考える.

 四月,いくつか本を読んだ.まず,宮良作さんの『忘れな石』である.戦争末期,八重山諸島波照間島の島民が日本軍によって西表島に追いやられ,500人以上がマラリアで亡くなった.そのことを伝えるものである.2014年に西表島に連れってもらった.忘れな石の碑の近くまでいっていたのだが,戦争末期にこのようなことがあったことは全く知らなかった.
 この戦争マラリアのことを,若いジャーナリストの大矢英代さんが,波照間島に住み込み,年寄りの信頼を得て,あのとき何があったのかを書き記したものが『沖縄 戦争マラリア』である.一気に読んだ.
 忘れないようにもう一冊書いておかねばならない.アメリカ占領下の沖縄と奄美の関係を論じた『国境27度線』である.
 そしてもう一冊が,適菜収さんの『国賊論』である.アベ政治の本質を鋭くえぐりだす.先の『根のある変革への試論』の序章でも引用させてもらった.
 そのうえで私の課題は,次の段階をどう開いてゆくのかということである.それを,まさに試論としてまとめてみたのが先の試論である.まとめるのは推敲の始まりである.ここからもっと深めていきたい.仕事の方は少しずつだ.五月半ばまでに問題もあわせて4題作らないといけない.

春の盛りに

 今日は定例の梅田解放区の日であるが,今回は参加は見合わせる.私は2013年の晩秋,肺炎で5週間入院した.肺炎そのものは完治しているが,肺には傷が残っている.健康診断でレントゲンを撮ると再検査となり,過去の治癒したとき前後のレントゲン写真と比べて,やっとその傷痕であることが判明する.
 傷があるので,いまここでコロナウイルスの肺炎となると,それはまずい.ということで,4月からは人混みの中に出るのをできるだけ控えている.4月中は仕事の方も,電車で出かける日数を減らすようにしてもらった.
 写真は3月31日の「コロナ被害の生活・医療補償と、地球規模の解決求める大阪市役所行動」での大阪市役所前の座り込み.この日は大阪市との交渉も行い,コロナ対策本部と政策企画室の担当者に3時間に渡って要請した.1~2週での文書回答も確約させた.4月からも月曜日には座り込みをするとのことだ.ただこちらは3月末のこの日以降,4月は電車で梅田に出るのは控える.

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 さて,私は毎日夕方,あまり人のいないところを選んで,犬を連れての散歩を1時間はしている.歩くことが大切だ.おかげで,江戸時代に開発された上ヶ原新田のあちこちや,野坂昭如の『火垂るの墓』に出てくるニテコ池,広大な満池谷墓地など,六甲山系の東南の山すそをいろいろ歩ける.桜はもう満開は過ぎ花は半ばは散っている.満池谷墓地の東にある雑木林のなかの道をおりたところにある廣田神社の,その周辺のコバノミツバツツジの群落はいまがきれいだ.歩くといろいろな想いがうかび,考えていることへの示唆が得られる.

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 ところで,コロナウイルスに関する日本政府の無策が意図的になされているようである.去年の1月に書いた『分水嶺にある近代日本』では「悲惨国家の現実」を最初の見出しにしたが,いまはその悲惨さがいちだんと深くなった.疫病の蔓延をショックドクトリンに,改憲を目指すものが,あえて無策を続けている.(13日追伸)そのなかで,安倍晋三の振る舞いが多くの人々の怒りをかっている.これはもう,いま立ちあがり革命で倒さねばならない段階である.
 しんぶん赤旗日曜版
の4月12日付にホリプロの社長の掘義貴さんの会見記事が載っている.

 私のような自民党に近い人間に赤旗からオファーとは。でも文化・芸能の営みを絶対絶やしてはいけないと思って引き受けた。感染防止で国に協力したのに補償どころか労いの言葉さえない。収束したら支援?それまでにみんな倒れてしまう。

と始まり,そのなかで,

 諸外国との文化度の差を感じます。
 新型コロナの問題で、ドイツでは文化大臣がすぐにアーティストに向けて「今、生命維持に必要不可欠な存在」「皆さんを見殺しにはしない」とメッセージを出し、文化分野での緊急支援措置を決めました。ドイツ在住のミュージシャンには、日本人にも即入金があったそうです。
 そもそも中国や台湾、シンガポールなどの新興国は、国の支援が手厚く、芸術・文化の予算をつけ、教育の一環でやっています。世界中からすばらしい人を集めようとしています。
 それに比べて日本は、国による支援が非常に貧しい。

と語っておられる.まさにその通りでこれは,しかしこれは文化・芸能分野だけの問題ではなく,すべてにおいて,政府は,要請はするが補償はしないということをまかり通らせている.これでは何のための政府かということになる.
 一方,あえてそうすることで,逆に強力な政府を求める世論を生みだし,いまの憲法ではできないと改憲へと誘導する力も働いている.これを見なければならない.

 ここには,このようなときに一人一人の人としての尊厳といのちを守る政治なのか,逆にそれを利用する政治なのかという,根本の問題がある.いまの憲法の下で,すべての人に今すぐ支援金を配ることはできる.やるかやらないか.政治の問題である.
 私はこれまで,アベ政治は安倍個人の問題ではなく,根なし草近代の成れの果てであるということを言ってきた.今回の疫病の問題であからさまになったアベ政治がふりまく悲惨なあり様と,それを利用して改憲を意図するもののおこなう政治は,近代日本の根源的な問題が現実化したものである.
 同時に,ここには,われわれがいまもってこのアベ政治を許しているという問題があり,その根底には近代日本の人と人のつながりのあり方,さらにその前に近代的な人の成立はあるのか,という問題が横たわっている.ここを考えなければならない.
 アベ個人の問題ではない.同時に,現実の革命はアベ打倒である.一人一人が立ち上がるしかない.資本主義の終焉期に,いずれの方向に向かうのか,一人一人が決断しなければならない.
 一方において,これを機会に世界の戦争勢力による新たな支配体制の構築が狙われているように思う.これをうち破り,これに対する人々の国際的な連帯はこれからの課題である.

 私のところでは,週に一度,地元の山の方で無農薬で野菜を作っている人が,その野菜を届けてくれる.また玄米,豚肉,魚などを生産者から直接届けてくれる共同購入の会とも三〇年来のつきあいだ.こちらも週に一度届けてくれる.その中には無漂白のトイレット用紙もある.生産者とそれをいただくものとの直接のつながり,その大切さは今回いっそうよくわかった.思いのほか大切なことなのかも知れない.
 こういうつながりをもっと拡げて,新自由主義の政治と経済を変革し,生産者と消費者が直接につながり共生し,人として互いに敬い尊厳を認めあう世を生みだしてゆかねばならないとつくづく思う.次の写真は廣田神社.古い神社である.

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 ということで4月は,地元の地域の活動の他は書斎での仕事がほとんどである.この機会に,時間をとってじっくり考えようと,これまでやらねばと思いつつできていなかったことを少しでも進めたい.

1つは,『解析基礎』の「複素解析」が,1年ほどそのままである.ここを,次につながるところまで構成し,一つにまとめたい.
2つめが,9年ほど前に「ガロア理論」に書いて,そのままになっていることに着手したい.
3つめが,『神道新論』の次への展開である.ここにも書いたように,この書は,自分にとっては「根のある変革思想への試論~資本主義がおしつける偽りの普遍性に抗う~」であった.「抗う」から次の段階としての,固有性に根ざした新しい世への変革を「うみだす」こと,そのための礎を築くこと.このためのもっとも勘所となることをつかみたい.これが難しい.

 今回の疫病の蔓延は,逆にこのようなことを深めよという,時代の問題提起でもある.あせらず,あわてず,油断せずでゆきたい. 

春が遅い

 春分から10日であるが,今年の関西の春は遅い.昨夕は定例の梅田解放区であった.大阪梅田北の中津の豊崎西公園に集まり,集会のあと梅田までデモした.梅田もいつもより人の通りは少ないが,それでも多くの若者が歩く.車道の半分をデモで占めて歩き訴える.今回もこちらは横断幕をもつの手伝ったので,デモの写真はない.
 豊中で森友問題を追及してきた人の言葉が重く,切実であった.2017年秋の段階ですべてはわかっていた.なぜ日本では怒りが起こらないのか.韓国やフランスのように人々の怒りが動きになれば,2017年の秋に安倍は退陣させられていた.
 実際,「宵山の日の参禅」にも書いたように,韓国では朴槿恵大統領の退陣を要求する革命的な波が,ガラス窓一枚壊すことなく平和的に街頭を埋めつくし,大統領弾劾が成立して罷免した.安倍のしてきたことは,あのときの朴槿恵大統領よりはるかに悪質である.刑法から見ても,人としても,はるかに悪質である.「人でなし」とはまさに安倍ととりまき連中のことである.
 デモを終え,今日は雨だったので,向かいのガード下に集まる.梅田のいつものところに集まって道ゆく人らに語りかける.森友問題を追及してきた人はここでも通りがかる若者に呼びかける.およそ50人は集まっていただろうか.
 園君たちは31日は11時から18時に大阪市役所前で座り込みもする.

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 さて,先日も書いたのだが,再び言わねばならない.

 こうして今日の日本は、国際資本の収奪に国家と国民を完全にゆだね、すべてをそこに捧げる政治体制となっている。これを「アベ政治」と言う。ここまで酷いことは、歴史上はじめてである。一度は堕ちるところまで堕ちないと何も変わらないのかも知れない。しかしそれでは犠牲が大きすぎる。

 今その犠牲が広がっている.この果てがどのようになるのか,まだ見えない.しかし,資本主義の終焉期に起こった一つの歴史段階であることはまちがいない.社会主義崩壊後のこの四半世紀,新自由主義が野放図に世界を支配してきた.2020年初頭にはじまる,新型コロナウイルスという疫病の世界的な流行は,新自由主義段階の資本の放埒な世界支配が限界に至っていることを教える.世界は新たな恐慌に陥ろうとしている.
 疫病の流行そのものは,今後もまた出てくる.資源開発,人口の増加,航空機の発達,経済活動の増加など動物居住地域と人との接触機会がますます高まり,新しい疫病が現れる可能性は高くなる.このコロナウイルスは,新自由主義の下に公的医療体制を破壊してきたイタリアやフランス,そしてアメリカで大きく拡大している.さらにまた,南米やインド,アフリカにも広がっている.99%の人々を誰一人取り残さない医療,これに転換してゆかなければ,ウイルスの拡散そのものを抑えることはできない.
 地球温暖化の防止,核兵器の根絶と同じく,疫病対策は極めて重要である.このいずれの課題も,資本の放埒さをそのままにして解決することはありえない.そのこと自体が,資本主義が終焉期にあることを示している.利益を貪ってきた多国籍企業の弱肉強食のやり方ではどうにもならないところに来ている.

 そのなかでも日本は実はいちばん酷いことになる.この疫病の蔓延を受けてアメリカの株が大きく落ちこんでいる.ところが日本の株は落ちこまない.それは政府が年金基金などを元手に株を買い支えているからである.日銀ETFの爆買いである.この数年,アベノミクスがうまくいっているように見せかけるため,この株の下支えがおこなわれてきた.今株が大きく下がれば,アベノミクスの損失があからさまになる.政府の株買い支えがなければ株価は1万5000円がいいところだといわれている.それをごまかすために買い支えてきた.ここで下がれば損失が露わになる.それで一時しのぎばかり続け,今も必至に買い支えている.
 しかしそれには限りがある.このまま行けば含み損は拡大し,いずれ年金の基金はなくなることが現実になる.それは必至である.いまの50代が退職するころ,日本の年金は解体している.
 あのトランプでさえ2400兆円もの経済対策を行う.アベ政治は口先だけで,ほとんど何も具体化していない.いまは,まさに,堕ちるところまで堕ちる過程であるのかも知れない.このままでは米騒動は必至である.いやそれが必要なのだ.

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 疫病の蔓延は大きな犠牲を払いながら,時代を動かしてきた.スペインかぜ(インフルエンザ)は1918~20年,第1次世界大戦のころにあったが,1億人以上が死亡した.そしてそれはロシア革命後の労働運動と革命運動の高揚をもたらした.欧州のペストの流行は,1347年~にあった.当時の世界の人口4億5000万人のうち約1億人が死亡したが,封建領主の弱体化と絶対主義王制への転換をもたらし,そこに生まれた商業主義が資本主義を準備した.東洋では,元王朝下の中国でのペストが流行し,その混乱と群雄割拠の段階を経て元が滅び明朝となった.そして日本の幕末,1858年(安政5年)のコレラである.封建制の崩壊と明治維新を準備した.平安時代の終わりころにも疫病の蔓延があり,それが武士の世を準備した.
 今回のコロナウイルスの拡大が,どのような変革とつながるのかはわからないが,人びとの命と環境を守ることを第一とする世のあり方に転換してゆかねばならないことを教えている.経済を第一とすることから,人を第一とすることへの転換である.しかしまた,そんな世は闘いなくしては生まれない.

 私は,このような時代の転換において,そこに生きる人のことわりを少しでも書きおきたいと前著をまとめた.そしていま,このような時代にあることが現実として現れてきた.拙著の次の展開のために,これまで書きためたものを再構成しているが,しかし時代の動きと思想の展開は一体である.資本主義の終焉期に,次の時代の扉をどのようにひらくのか,この問題に対する基本的な問いの枠組みを明確にすること,これが課題である.
 このような問題は,普遍性ある一般論と,現実のそれぞれの課題のあり方をふまえた固有の論が必要である.そしてその固有性が普遍の場にあることまでを明確にしなければならない.ここに書くことで,課題を見直しながらやっている.どこまでゆけるかはわからない.このような時代になった.いつも受験生にいっている言葉であるが,あせらず,あわてず,油断せず,で考えてゆきたい.

 29日からは授業である.この1ヶ月は授業はなく,仕事は書斎仕事,つまりは問題づくりで,これは今風にいえばメールワークであった.今夜から4日は授業である.桜は咲いていても五分である.写真は,野坂昭如の『火垂るの墓』に出てくるニテコ池から甲山を望む.ときどき犬を連れて歩く散歩道である.前に書いた大池から1Kmほど南で,それだけ甲山が小さく見えている.

春分の日々

 ハクモクレンの花はもうみな散り,花海棠の芽がふくらんできた.21日は宇治に帰り,われわれ兄妹で墓参り.一族親戚がみな眠る善法の墓地で,親の墓からはじめて、親戚の墓のそれぞれに線香を立ててゆく.ちょうど年下の従兄弟とそのお母さんも来ていて,四半世紀ぶりに出会った.この墓地には花屋敷・山宣の墓もあり,そこも参った.
 それから平等院の裏通りを歩いて宇治川に出る.裏通りと言ったが,これが本町通りと言い、いちばん昔からある通りである.桜はまだで,塔ノ島も人は多くなかった.子供のころから稲荷山と読んでいる川東の山塊が懐かしい.この山の麓には菟道稚郎子の住居跡といわれる宇治上神社もある.この山は3.11の地震の後に登っている.そのとき考えたことは「近代と核力」に書いた.

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 それから川沿いに北に歩いて平等院の入り口から平等院参道に出て,昔から続く小学校時代の同級生の店に入り,お茶をいただいてきた.六年間組替のなかった学年で,同級生はほんとうに親しい.近所への土産にと茶団子も買った.大津に住む妹からは鮒寿司をもらい,川魚屋で鮒の洗いとウナギの肝焼きも買って帰ってきた.酒の肴でも川の匂いのするものがいちばん懐かしい.前に買ったときの写真がここにある.

 そして22日は梅田解放区の街宣があった.アベ政治も煮詰まってきたということで緊急に呼びかけられたのだ.午後の2時間近く,こちらもいつものようにいって手伝ってきた.道路の向こう側にも別れて座り込みもした.この日は,連帯ユニオンの組合の人らも幟をもって参加し,語ってくれた.たたかうあるみさんのところにも詳しい.
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 新型のコロナウイルスの広がりがとまらない.これによって,世界は新たな恐慌に陥ろうとしている.社会主義崩壊後のこの四半世紀,新自由主義といわれる資本主義が,野放図に世界を支配してきた.この経済恐慌においても,1%は99%に犠牲を押しつけ乗り切ろうとする.
 しかし,このコロナウイルスは,新自由主義の下に公的医療体制を破壊してきたイタリアやフランス,そしてアメリカで大きく拡大している.さらにまた,南米やインド,アフリカにも広がっている.99%の人々を誰一人取り残さない医療,これに転換してゆかなければ,ウイルスの拡散そのものを抑えることはできない.
 利益を貪ってきた多国籍企業の弱肉強食のやり方では,どうにもならないところに来ているのだ. 不安定な仕事で食べている人々が,まず生活できなくなる.それによって消費が順に落ちこみ,最終的にはものを売ることでしか成り立たたない資本主義は立ちいかなくなる.
 これほど資本主義の終焉がはっきりと見えることになるとは思いもよらなかった.そして,この疫病の流行は,人びとの命と環境を守ることを第一とする世のあり方に転換してゆかねばならないことを明確にしている.
 これがこれまで言ってきた,経済を第一とすることから,人を第一とすることへの転換である.しかしまた,そんな世は闘いなくしては生まれない.小さなところからでも声をあげよう.
 皆そのことを訴えていた.道ゆく若者の心に届いただろうか.君らがいちばんの犠牲になるのだ.立ちあがれ.
 ここではいちいち書かないが,アベ政治とは,近代の法に照らして犯罪者であるようなもの達が集団で行っている政治だ.そもそも法以前に,人としての矜持を失った集団である.それを操るものは国際的資本の下にあるもの達だ.
 今回の疫病問題でも,アベ政治は責任を国民に押しつけたままである.この疫病は,アベ政治によっていっそう悪質になった.対応は世界中で最悪である.その上,この疫病を逆手にとって,緊急事態宣言というファシズム政治と,そして改憲まで狙っていた.
 だがこれは,安倍個人の問題ではない.かつての侵略戦争や植民地支配、そして国家神道を総括しないままきた近代日本の成れの果てに起こった.
 われわれこそ,これを転機として,新自由主義の政治と経済を根底から変え,生産者と消費者が直接につながり共生し,人として互いに敬い尊厳を認めあう世を生みだしてゆかねばならない.

歴史は繰り返す


   「歴史は繰り返す」,昨夜コメント欄にこれを書いたが,気になったので、この言葉をもういちど調べてみた.日本ではローマ時代の歴史家 クルチュウス=ルーフス の言葉と言われているが,歴史を研究した人なら誰が言ってもおかしくはない.
 そして,カール・マルクスは,『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』の中で,「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」と書いた.これもマルクスがはじめて言ったというより,原本では確認していないが,ヘーゲルが『歴史哲学』の中で書いたのが最初のようである.ヘーゲルは「弁証法」の一般論としてこれを言い,マルクスが、フランス革命からの具体例として書いたようだ.
 昨日は定例の梅田解放区の日であったが,横断幕をもちながらこの言葉を考えていた.そうしたら今日来た岩上さんのところからのメールに次のことが出ていた.
 岩上さんが昨日の安倍首相の記者会見でぶっつけ質問,「特措法の非常事態宣言で国民を慣らし,その後に改憲で緊急事態条項を導入するのではないか?」これに対して安倍は,「安倍独裁」を否定せず,それは「国民が選ぶことです」と,応えたというのである.
 なるほど歴史は繰り返す.ヒトラーは,ベルリンが,ナチスから言えば陥落し,連合国側からいえば解放され,自死する直前,「私を選んだのは普通の国だ。私を怪物と呼ぶならば、選んだ選挙民が悪い」と言い残したそうである.ファシズムの権力者は同じことを言うのだ.歴史は確かに繰り返す.ヒトラーはこの言葉を残して死んだ.安倍が同じことを言っているのは,それだけ追い込まれているということだ.
 マルクスの言葉を借りるなら,ヒトラーを一度目として,アベ政治は二度目の喜劇である.実際,安倍の愚かさ加減はもはや喜劇の段階である.しかし、ヒトラーが台頭してきたときも,ドイツ人の多くは彼が権力を握るところまでゆくわけないと思っていた.だが歴史はあの通りである.
 アベ政治のままでは経済恐慌に対応できず,日本はますます没落をはやめ,避けられたはずの国民の犠牲が広がる.ここはまさに,安倍を選んだ国民がそれに気づき,「国民が選ぶことです」の言葉とともに,安倍を追放しなければならない.それが歴史に対する,二度目の喜劇を生きるものの責任である.

 と言うことで,定例の「安倍やめろ」の梅田解放区に行ってきた.こういう時代になって参加者が増えた.梅田東の南北の歩道の両側に並ぶ.50人が集まってきた.そして1時間半,それぞれが喋る.皆,今の世の動きに,このまま許してはならないという,強い思いで語っていた.

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 いつものように私は喋らず,横断幕をもつ.東梅田の街頭に立って人の語るのを聞き,いろいろ考える.私にとってはそういう場になっている.だから出かける.若い人らはこの日も打ち上げの交流会をやっているが,私はそこには出ず,戻ってきた.
 先日も書いたが,いま歴史が大きな分水嶺にあることはまちがいない.このことは1年前にある雑誌に寄稿した『分水嶺にある近代日本』に書いたが,このように現実の問題として現れてきた.このなかでいかに生きるのか.ほんとうに,難しい時代になってきた.この歴史の動きに対して,自分にできることはしておきたい.
 三月も半ばを過ぎた.自分のいくつかの仕事や自治会の事々で新年度の準備をはじめてゆかねばならない.また前著を受けての,次の著作を準備しはじめている.枠組はある程度でき,その下にこれまで書き置いたものもまとめたが,これからひとつのものにしてゆかねばならない.これを今年前半の仕事の柱にしている.

f:id:nankai:20200317215019j:plain 写真は,梅田解放区が2枚,片隅のツルニチニチソウと,自宅から歩いて10分の大池の端から甲山を眺めるものとが,1枚ずつ.

3.11の日に考える

 今日は福島の原発事故から9年目の日である.時間をつくって大阪の関電本社前までいってきた.いつも梅田解放区で出会う人らと,そして前からここで座り込みを続けている人らと,それぞれに抗議の意思表示をしていた.関電の周りをデモしながら声をあげる.こちらは仕事もあり,少し早めに戻ってきた.かつて毎週金曜日に通い続けた関電の周りは,何とも懐かしい.
 いや,懐かしいと思うだけの時間が経ったのだ.しかし、この核惨事はこれからも続く.何も終わっていない.この日のことはたたかうあるみさんのブログに詳しい.この後の行動もいろいろあったようだ.いつもご苦労さまです.
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 家に戻ったら、鹿砦社の松岡さんから3月11日発売の「NONUKES voice」23号が届いていた.いつもありがとうございます.それを読みながら,今日考えたことと重ねあわす.自分の記憶のために記しておく.
  なによりおさえなければならないことは,いままさにわれわれは,福島原発原子炉崩壊以降の時代を生きているということだ.この時代においては,それぞれの人が,原子炉崩壊の意味とは何か,それ以降の世をいかに生きるのか,それが問われている.そのことをどこまで自覚するかを含めて,問われている.
 原子力緊急事態宣言は今も続き,これを根拠に被曝許容範囲の制限も福島ではないに等しい.そのことを覆いかくし,終わったことにする力が今の日本を支配している.地震列島に五十六基もの原発を作ったのは,そこに利権と利潤の拡大を求める日本の資本主義そのものである.
 そしてこの資本主義は原発事故とそれを受けて発令された原子力緊急事態宣言を覆いかくし,今が原子炉崩壊「以降」にあることを否定する.しかし,いかに覆い隠そうとしても,核惨事の中にあるという事実は,厳然と現実化する.東京から西へ避難した人らの存在がそれを教える.
 九年前,福島原発の核炉が東日本大震災で崩壊したとき,これを教訓として,日本は変わらねばならなかった.ここに至る歴史を省み,近代の世のあり方を問い返さねばならなかった.しかしそれはなされず,それどころか,これをいわゆるショックドクトリンとして利用し,惨事に便乗して民主党から政権を奪いかえし,新自由主義の資本主義政治がおおっぴらになされてきた.それがアベ政治である.
 東京電力福島第一発電所の引きおこした核惨事は,かつての十五年戦争の敗戦につぐ近代日本の第二の敗北であった.近代日本に内在する基本的な問題が,二つの敗戦に通底している.この過ちを三度くりかえしてはならない.
 しかしアベ政治の下では,再び同じ過ちをくりかえそうとしている.

 それが,コロナウイルスに対する政治の対応である.福島の核惨事と同じ過ちがくりかえされている.9日に書いたように,この疫病の蔓延に対するアベ政治の対応は世界的に見ても最悪である.
 そして日本の経済はこれを契機に大きく没落する.株価の暴落を糊塗するために政府は年金基金で株の買い支えをしている.しかしこれも限界がある.遠からず年金の破綻が現実化する.年金の破綻は日本没落の始まりに過ぎない.
 ワクチンなどの予防策が出てこない限り,一定の人が免疫をもつまで続く.国際的にも一国的にも人の移動が制限され,多くの産業や社会機能が制限される.これまで拡大し続けてきた新自由主義経済に大打撃を与える.金融危機も進行し,国際的金融資本の世界体制とそれにもとづく米国の覇権体制が終焉する.まさに資本主義の終焉である.
 それがこのように疫病の流行によって明確になるとは思いもよらなかった.走り続けてきた人類に,少し立ち止まってこれからのことを考えよ,ということなのかも知れない.そしてそれは,立ち止まることをしないアベ政治を打ち倒せ,ということでもあるにちがいない.

 私は二年前『神道新論』を出版した.物書きでも何でもない私のようなものが,自著を出版したこと自体,福島の事故以降に生きるものであるがゆえのことであった.あのようにまとめるのに,自らが青空学園で考えてきた蓄積は必要であったが,福島の事故後に生きるということがなければ,出版はなかったかも知れない.そのもう一つの契機は二〇一三年の秋に五週間の入院をしたこともある.福島の事故と,自らの病気とそこからの回復,これが雑誌への寄稿とそれをもとにした出版を促したのだ.
 『神道新論』では,日本語に蓄えられてきた智慧としての日本神道をとりだし,そして,それとは真逆の国家神道の下にあった近代日本を照し出し,次の時代の構想と,そこに向けて今をいかに生きるかについて,考えた.
 いわば,拙著は日本語に蓄えられてきたこの智慧を取り出すための基礎作業であった.それをふまえ,いまの時代の課題,歴史の求めに応え,資本主義以降の歴史の扉を開くことについて,掘り下げて考えたい.それを求めてゆきたい.
 そのように思いながら,それを考える場として,私は街頭に立っている.