理念をもって生きる

 雑誌『週間金曜日』2010.11.12 号で,龍谷大学の教員で,現在パリ在住の廣瀬純さんが,「理念をもっていきること」と題して,年金改革に反対するフランスの息吹を伝えておられる.廣瀬さんはアルゼンチンの闘いを紹介する『闘争のアサンブレア』も書いておられこれは読んだ.週間金曜日の記事の後半で,廣瀬さんはフランスの哲学者,バウディの近著を紹介する.そのなかで次のように書いておられる(太字はこちらでつけた).

 『サルコジとは誰か?』はバディウによる状況論シリーズの題4巻として刊行されたが、フランスでは昨年『仮説としてのコミュニズム』(L'hypothèse communiste.未邦訳)が刊行され、第4巻で提示された「コミュニズムの理念」という問題が改めて本全体の中心テーマとして取り上げられ、より詳細に論じられている。バディウの議論はおよそ次のようなものだ。すなわち、敵は資本主義と代議制民主主義とのカップルを唯一可能な社会のあり方だと喧伝し、その他のあり方を端的に不可能なものだと位置づけることで、「理念をもつことなく生きること」を我々に強いようとする。
 これに対し「真に生きること」としての「理念をもって生きること」とは、可能/不可能の敵によるこうした固定的な境界画定を根底から揺るがすこと、また、そうすることで見出される新たな可能性を歴史のなかで具体的に実現していくことだ。
 新たな可能性が示されるのは「出来事」(バディウ自身にとってはとりわけ"六八年五月")によってのことだが、その可能性の具体的な実現は我々一人ひとりがその実現プロセスにおのれの身を投じる「決意」をなすことによってしか始まらない。そうした「決意」の瞬間から、各人の行なうどんなローカルな活動(たとえば商店街でのビラ配布)も直ちに、世界史全体における「仮説」の実現プロセスそのものを体現するものになるのだと。
 年金改革をめぐるサルコジ政権/ストリートの対立は、したがってまた、理念をもつことなく生きるのか、それとも理念をもって生きるのか、ということの直接的なぶつかり合いでもあるのだ。

 この一文にたいへん感動した.20日の土曜日にデモに出かけて,動員ではなく自分の意志で人々が街頭に出てきたことに心を動かされたのと重なるからだ.歴史は人をつくる.人は歴史のなかで理念をつかむ.小沢問題をめぐる日本での対立はまさに「理念をもつことなく生きるのか、それとも理念をもって生きるのか、ということの直接的なぶつかり合い」でもあるのだ.
追伸:北朝鮮の砲撃で,政府は朝鮮学校への教科書無償化を延期しようとしている.愚かなことである.これについては,「高校無償化問題と拉致問題」,「朝鮮学校に兵庫県が独自助成」に述べたとおりです.国家間の関係がいかなるものであろうと,そのもとにある人間の人権は守られればならない.