「福島そしてチェルノブイリ」

昨日16日,国鉄西宮駅横の西宮市のホールで開かれていた広河隆一写真展「福島そしてチェルノブイリ」に行ってきた.5月8日から16日まで.いつでもいけるだろうと思っていたら最終日.京都での授業の前に立ち寄った次第.これまで広川さんが写真雑誌「DAYS JAPAN」に発表されてきた写真を選び,展示していた.人類が起こした二つの核惨事.その福島の惨事は,最初のチェルノブイリよりもはるかに深く大きく,今後何世紀もわたって地球を核汚染し続ける.このチラシの写真には「チェルノブイリ原発から60km北の汚染地帯で出産した若い母親.食べ物が汚染されているため,慢性的な栄養不足で母乳は出にくい.しかも,セシウムストロンチウムなどの放射性物質が含まれている」との説明がついている.
ちょうど手元に,この写真展のチラシの写真が表紙になった,「DAYS JAPAN」の2011年11月号があった.雑誌の方には,この写真は,1993年,事故から5年の時点で,広川さんが,ベラルーシの町ホイニキで撮影したものだとあった.雑誌のこの号のテーマは「子どもたちを救え! チェルノブイリで何が起きたか」で,「事故から25年が経つ現在もなお続く子どもたちの悲劇に,どのように立ち向かっているのか」として「現地救援団体代表3人が語る25年の苦難の歴史」,そして「福島から世界へ」と題した武藤類子さんの一文と,ヨウ素剤配布を独自に行った三春町の町長へのインタビューなどが記事である.もういちど読みかえした.
チェルノブイリのこれだけの教訓がありながら,為政者は子どもを見捨てる.5月13日の参議院予算委員会で生活の党の参議院議員森ゆうこ氏が次の質問をしていた.現在,福島での居住制限地区は,年間20ミリシーベル超,50ミリシーベルト以下となっている.さらに「五十ミリシーベルト、大丈夫なんだということで、事業者が新規に開業していいと、これを政府が税制上後押しをする、これは余りにもおかしい」.これが森議員の質問趣旨であった.要するに,いわゆる公衆被曝限度年間1ミリシーベルト放射線管理区域は5ミリシーベルト,というのは現在も変わっていないといいながら,福島では,年間20ミリシーベルトを越えなければ政治は何もしない.50ミリ以下なら事業も認める.2011円4月の文科省の決定への批判はFoEのここなどにもある.国の態度は,この事実に顕著である.この基準がその後変わったということは聞かない.この下で子どもたちが生活し続けている.これが日本の現在である.

おなじ「DAYS JAPAN」の2011年7月号には郡山市の小川さんの次の言葉が載っている.「年間20ミリシーベルトの基準値が提案されたとき,しつこく何回も教育委員会に質問したんですよ」.教育委員会保安院につないだ.「保安院の辻さんがでたんですね.『じゃあ,20ミリというのは福島県だけで適用されるのですか』って聞いたら,辻さんは『そうです』って答えたんです.『福島県以外の人は年間1ミリシーベルトで守られて,福島県人だけは年20ミリまで我慢しろってことなんですね』と言うと『まあ,そういうことになりますね』って」.25年の後,福島はどうなっているのか.保安院のこの対応をつたえる小川さんの言葉は歴史の証言である.忘れないようにしたい.
原爆を経験して,そして福島核惨事である.チェルノブイリを経験して,そして福島核惨事である.この二重の経験を経ていながら,それを教訓にすることができない.それが日本政治の現実である.こんなことをいつまでさせておくのか.今回の写真展を企画し実施された方々に感謝したい.これからも各地で行われていゆくことを願う.こちらも半日かけて,1年半前の雑誌を読み返し,勉強した.事実関係で間違いに気づかれたら,教えてほしい.大阪の金曜行動は今日はない.この調べものが,今日の私の金曜行動.写真はバラと,エゴノキの花の蜜を吸うカナブン.それでも季節は巡っている.