山本太郎の行動を支持

 昨日,山本太郎議員が参院のテロ非難決議の採決時に退席.その理由を記者会見で明らかにした.テロ決議のすべてに反対というわけではないが代案を提案したが聞き入れられなかったとして,次の提案をしたことを明らかにした.追伸:山本太郎さんのブログが更新され,「山本太郎はテロリスト?」で彼自身が経過と考えを述べている.
 1.人質事件のさらなる検証の必要性 2.イスラム国を生んだイラク戦争の総括の必要性 3.決議案の英訳の必要性 4.特定の国名の削除
 これについては田中龍作ジャーナルも伝えている.<十分な検証ないまま「対テロ非難決議」 山本議員のみ退席>.四項目の提案はそれぞれもっともなことである.とりわけ,二人の日本国籍をもつものが殺されたことに対する安倍政権と日本政府の責任が何も明らかにされていない.このようなままでのテロ非難決議は,決議するだけではだめだ行動だと,日本が派兵することにつながる.この問題を行動で提起したのは,山本太郎議員,たった一人であった.
 このような時でもあり,大阪宣言の会が今日午後二時から大阪駅頭で遊説をするというので,小一時間だけ参加してきた.できる行動はする.ビラまきを手伝い,それからこちらも上記のようなこと,そして,山本太郎議員の行動を支持することを喋ってきた.国会は今や大政翼賛議会となり,報道機関も,大本営発表をそのまま報道していた昔と何も変わらない状態である.
 議会でただ一人反対するということはかつてもあった.同じ山本姓であるが,山本宣治である.
1929年3月5日,京都は宇治の人,山本宣治は,治安維持法改悪反対の演説をおこなう予定で草稿を準備していた.しかし,与党政友会の動議により強行採決され,演説も討論もできないまま可決された.そしてその夜,右翼団体である七生義団の黒田保久二に刺殺された.このとき治安維持法改悪に反対したのは,山本宣治ただ一人であった.
 それに先立つ日,彼は全国農民組合大会で「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ,山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」と演説した.この言葉は,まさに近代日本の良心ともいうべき言葉となった.宇治川西岸の小高い丘の上の墓地には,この言葉を刻んだ碑が立ち尽くしている.この碑の言葉は戦時中石膏で固められ読めなかった.
 1929年は,1928年3月15日に続いて,4月16日に共産主義者への一斉弾圧があった年であり,日本軍国主義が日本を戦争に引きずり込み,破局への道に踏み出したときである.今の日本は,この85年前の日本と同じ所にいるのではないか.歴史は二度くりかえす.一度目は悲劇として,二度目は?として.