満池谷墓地

 自宅から5分ほど歩いて阪急甲陽線の踏切をわたると,西宮市の大きな墓地,満池谷墓地の北側の入り口である.この墓地は車もとおり抜けることができる.郵便配達のバイクも通り,また自転車も通る.ここを犬を連れてよく歩く.墓地から北をながめると,甲山が墓地と一体に一つの情景を作っている.
 墓地にはその街の歴史が刻まれている.古い墓碑には明治十年とかもあるから,ここは少なくとも明治の初めからあった.(追伸:十二月九日に,明和など江戸時代後半を確認した.)このあたり一体は江戸時代まで雑木林であったのだろう.満池谷というように東西が少し高くなっている.墓地の東北隣の町は「六軒町」と言うが,江戸時代に六軒が開拓に入って,それが今に続く町の名になっている.そういうところである.
 墓地を歩くと心が安まる.やはりこの町に生きていった人のことを思うからだろうか.私が死んだら入る墓地は京都の宇治にある善法墓地.そこには両親や親戚一同の墓がある.山本宣治の墓もある.いずれそこに帰るわけだが,ながく西宮に住んだだけに,この満池谷墓地もまたなんとも懐かしい.
 この墓地は,火葬場一つと葬儀場二つ,納骨堂などもある.一つ一つの墓の文字を読みながら歩く.さきの戦争での戦死者の墓が実に多い.二〇〇を越えることを確認した.「何々島で戦死.行年二十歳」などというのがいくつもあった.手をあわせる.ほとんどが二等兵とか伍長とか軍曹とか一般兵士ばかりである.「父建之」とある.墓碑を建てた親の気持ちを思う.「昭和十九年七月十八日,マリアナ島で戦死.行年二十五歳」という碑は,「昭和三十二年 妻 ◯◯建之」とありその横に女性の名が並んで記されている.戦後女手一つで子どもを育てられたのだろう.今も新しい花が供えられている.しばらくそこにたたずむ.
 こうして一つ一つの墓の歴史を考える.入り口からおよそ二〇分歩いて墓地の南口に来る.墓地の出入り口になるところのいくつかに地蔵がある.
 そこを出て東のところに,さきの阪神淡路大地震で亡くなった西宮市民の名前を刻んだ犠牲者追悼の碑がある.さらにその奥にあの戦争での戦没者の慰霊塔がある.晩秋の頃のこのあたりは,とりわけ夕日が当たるときは,落ちついた公園である.いつも子供らが遊んでいる.この南口のすぐ南側がニテコ池.そう,野坂昭如の『火垂るの墓』の舞台ともなったところである.今は市の貯水場になっている.
 そこをながめながら東に坂を登り少し歩くと,「塞(さえ)神社」がある.この名の神社は全国にいくつかあるようだが,この神社の向こうの広田神社がある地域が広田で,その境界にある神社である.悪霊などが地域の入るのを塞き止めるという意味があるのかも知れない.小さな神社であるがこんもりと木が茂っている.この鳥居もあの地震で倒壊し,そして翌年再建されたとある.
 ここをぐるっと回って,それから雑木林の中を北に歩いて,およそ1時間で自宅に戻る.途中からもういちど墓地の中を通るときもあれば,車道横の道を歩くこともある.時間のとれるときは,歩くことを心がけている.これは一つの散歩道である.
 もうひとつが夙川上流の散歩道で,これはこれまでも何回かその情景をここに書いてきた.最近は,この墓地をまわることが多い.
 歩くということは,大切なことだ.そのときそのとき考えていることが心に浮かぶが,机の前で考えるのとはまた違うことが浮かんでくる.
 三年前の今頃は,器質化肺炎で入院中だった.いつも十一月頃には夏の疲れや秋の机仕事で腰が痛くなるが,あのときはそれを漢方薬で治そうと,九月頃からよく風邪や凝りに効く漢方薬を飲んでいた.どうもそれが悪化の原因であったように思う.年の暮れに退院してステロイドを一年かけて終わってからは,この二年間一切薬は飲んでいない.そんなことも考えながらの散歩である.とりとめもなく書いてしまった.