秋来ぬと

 あききぬとめにはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる 古今集一六九
 中学のときに習って以来,八月の終わりか九月はじめ秋を感じたときにこれを思い起こす.やや詳しくはここを.これを書いてもう五年である.今年の夏は長く,暑かった.朝からツクツクホウシが鳴くようになったのはようやくこの二,三日である.朝夕の風は確かに涼しい.夏の風とは確かに音も違う.空も高い.ようやく原稿も一通りできたが,夏の間に気づいた解答の改訂や『整数の基本』の改訂など,後始末が続いて,なかなか本来の勉強にいかない.
 秋は来たが,しかし秋の風情をゆっくり楽しむことはできない.フランスの雑誌「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール]」が「最悪の事故はこれから起きる」とする告発記事を掲載したことをブログ「とある原発の溶融貫通(メルトスルー)」さんが紹介している.この雑誌の傾向は知らないが「福島原発最悪の事故はこれから 日本は滅亡」とあるそうだ.実際,最悪に備えて最善をつくす立場からいえば,まず最悪何が起こるのかを,広く共有しなければならないのにまったくなされていない.フランス人に言わせれば,福島第一の4号炉の使用済みプールは精神力だけでもっているようなものだ.
 放射能の問題についても同じことが言える.人民新聞1455号には「チェルノブイリ救援・中部の理事」の河田昌東さんが西宮市でおこなった講演会の記録「放射能と内部被曝」が載っている.事実を事実として共有し,わからないことはわからないこととして,可能なかぎり備えをする.可能なかぎり子供を集団疎開させる.先週の金曜の東京官邸前集会で,「原発差止判決」を書いた元裁判官の,井戸謙一弁護士があいさつされたが.その中で,「ソ連は事故から5年経って、避難活動を本格化させました。いまなら、フクシマは事故から1年半です。今からでも遅くありません。放射能の被ばくは少なければ少ないほどよいのです。まだ間に合います!」といわれている.悲痛な叫びである.ソ連が五年後に避難をはじめたのは,そのとき,様々の子供の病気がもう誰も否定できない程に出てきたからである.この経験があるのに,日本の政治はないもしない.
 このような現実をおいて,日本政治は自民党民主党も党首選にうつつを抜かしている.まったくそれは砂上の楼閣の戯れにもおよばない,誰がどうなろうと関係ないことである.それをさも重大なことのようにマスコミは報道する.あるいは維新,維新である.しかしその政策を読むと,彼らもまた旧体制の補完勢力にすぎない.マスコミは,人々の目を現実からそらせるために,面白おかしく政治報道を流し続ける.それはいわば明治維新が間もなくであるときに江戸幕府内の人事争いを報じるようなものだ.
 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」は「日本は滅亡」と書いたようだが,数年のうちに,現実化した悲惨な事実の重さに耐えきれず,このよう空虚な政治や報道,そして旧体制が行き詰まることはありうる.それに代わる世を生みだすときに払う人々の犠牲,苦しみはあまりに大きい.それでも私は,自分の言葉で考え,自分で事実を探究し,恐ろしくとも現実から目をそらせず,最悪に備えつつ最善をつくす人間がいるかぎり,再生は可能だと信じている.
 3.11以降,このようなことを我々までもが考えなければならない時代になった.戦後65年,戦後の復興期に働き続けてきた親の世代の働き人の奮闘は受けとめねばならない.がその一方で,目前の経済的繁栄を追い求めて,世の中の大きな枠組や戦争経験をいかに受けつぐのかといったことについては,為政者は人々にできるかぎり考えさせないようにしてきた.その意味で,戦後の世はあまりにも虚栄であったのだ.いまもテレビや新聞は人々に考えないように考えないように誘導している.
 そのうえでそれをうち破った人々の動きののうねりに希望を持っている.写真は隣の壁にいたゲジゲジ.多足類でムカデの仲間だが,こちらはアブラムシやシロアリを食べ,人間は噛まない.右の前足(手?)がない.彼(女?)も苦労して生きているのだ.