十七士の墓に参る

 昨日は京都で授業.昼過ぎ,少し早く家を出てJR京都線山崎駅で降りる.天王山の麓である.「いま『夜明け前』を読む」につぎのように書いたが,天王山の中腹には、真木和泉とその同志十七人の墓がある.

 真木和泉(文化十年(一八一三)三月七日〜元治元年(一八六四)七月二十一日)は筑紫の国の神官の子に生まれ江戸に遊学する。後に筑紫に帰り藩の改革に取り組むがおよそ十年間にわたり蟄居を命じられた。この期間に全国の志士と交流し、またその思想を深めた。その後、紆余曲折を経て、文久三年(一八六三)五月長州へおもむき毛利敬親父子に謁見、攘夷親政、討幕を説き、六月上京し学習院御用掛となった。
 真木は、早くから倒幕と皇政復古の主張を明確に掲げ、一貫して行動、倒幕勤王の志士たちを指導した。
 文久三年(一八六三)八月一八日、会津藩薩摩藩が結託して長州藩を追放した政変が起こる。真木和泉も長州に逃れる。この時期の薩摩はまだ公武合体派であり、長州は明確に反幕府であった。そして、翌元治元年(一八六四)年六月、長州藩の出兵上洛にあたり、その委託を受けて真木和泉は諸隊総督となった。七月の禁門の変では久坂玄瑞来島又兵衛らとともに浪士隊を率い、七月十九日堺町御門を目指して進軍、市街戦となった。このとき京の街には兵の死体が至る所に転がり、街々は炎上、大混乱に陥った。結局、福井藩兵などに阻まれて敗北、天王山に退却、真木和泉の率いた長州軍は、激戦場から二十日には山崎まで落ちのび、ここで従ってきた数十人を解散する。
 長州兵の撤退を見届け、山崎に留まった真木和泉以下十七人は、いずれも長州の人ではなかった。天王山山腹にある宝積寺で一泊、二十一日天王山に登り、会津藩士と新撰組の二百名、見廻組の三百名の討伐軍を確認した。天王山の中腹の京都の見える場所で火を放ち、尊皇攘夷のこころざし半ばで、同志十六人とともに自刃した。五十二歳であった。
なんと多くの人が死んだことか。島崎藤村真木和泉について哀惜をもって描いている。


 一度参りたいと思いながら,夏が過ぎてやや気温も下がり,ようやく行ってみようと思った.山崎駅で降り,まず宝積寺に参る.真木らが最後の夜を過ごした寺である.真言宗の寺であるが,同じ境内に大黒天の堂もあり,さらに鳥居も立っていて,まさに神仏習合の寺院である.しばらくここにいる.
 さらにもう二十分ばかり,山道を登ってゆく.途中にいろいろな史跡もあり,ときどきそれを読みながら,展望台もすぎてようやくに十七士の墓である.合掌.銘文を読み,墓のまわりの光景に見入る.昭和四十八年十月に,この墓が再建されたときに書かれた木の銘板の一文がよく分かる.
 念願の十七士墓参をはたした.もう三十分歩けば天王山頂上であるが,さすがにそれはまたの機会とし,ここから降りはじめた.
 宝積寺に戻ると,社務所にいた老婦人が表に出て掃除をしているのに出会う.「十七士の墓に参ってきた.」というと「よろこんではるやろ」と言ってくれた.宝積寺の人にとっては,十七士は身内のような存在なのだ.こういわれてこちらも嬉しくなった.そして山崎駅に戻る.1時間半ほど山道の散策であった.
 二〇一八年は明治維新から百五十年の節目の年である.明治維新を賛美するいろいろな行事も行われるだろう.しかし,島崎藤村はその父の生涯を通して,明治維新は,命を捧げた志士たちが願ったものではなかったことを,説く.藤村が『夜明け前』で追求した問題は,すべて今日に開かれたままである.非西洋にあって最初に資本主義の国となった日本のこの近代百五十年は何であったか.資本主義そのものが終焉期を迎えたいま,それを考えることが歴史の課題の一つである.