秋の日々雑感

 少し秋らしくなり,上着がいるようになった.昨夜は梅田解放区の日であった.いつものように20人ほどが集まり,はじめる.この日は午後にいろいろの集会やデモもあったようで,そこから駆けつけている人がほとんどであった.

 ところで,『海鳴りの島から 沖縄・ヤンバルより』のなかの「安倍政権の沖縄に対する凶暴な姿勢を許しているのは誰か」で,目取真俊さんが,次のように言っている.

 沖縄県知事選挙から元気や希望をもらったというなら、全国各地で辺野古の工事再開を止める行動を起こしてもらいたい。行政不服審査制度を国が使う問題は、多くの専門家から批判されてきた。にもかかわず再度その手法を使う。専門家も市民もそこまで安倍政権になめられているのだ。行動しなければ何も変わらない。

 昨日はこれを読んで出かけた.その通りであると思う.そしてさらに,このように梅田で声をあげるのも,できることはしようという気持ちと,それでも自己満足かも知れないと思う気持ちが半ばする.横断幕をもちながらいろいろ考える.

 片山さつきという人がいる.人権は天賦のものであるという天賦人権論を否定する人である.そしてその彼女は,自分の能力はおのれの私有物であると考えている人であると思う.アベ政治の中のものは皆そうである.私は,『次の世代に何を伝えるのか~今こそ「高い立場からみた初等数学」を~ 』や『神道新論』の序章で次のように書いた.

 教育とは人そのものを育てることである.一人一人を人間として育てる.一人一人の人間を開花させる.そうして現れた人間のさまざまな力は,けっして個人の私物ではない.どんな力も多くの人々に囲まれ育まれてはじめて開花する.であるから,育まれた自らの力を,育ててくれたこの世間に返さなければならない.少しでも世に循環させてゆかなければならない.こうして人を育て,人に支えられる世でなければならない.つくづくとこのように思う.

 片山さつきはこのことがわかっていない.アベ政治を終わらせ,教育行政を一から立て直し,こうして人を育て,人に支えられる世の人と人のあり方を生み出してゆかねばならない.

 それにしても先日の裁判での,福島原発の事故当時の東電の経営陣の無責任さ.報道もされたが, 福島原発刑事訴訟支援団のサイトである「東京電力福島原発事故の真実と責任の所在を明らかにします!」にもある.私もこの裁判の原告に入っているが,いつも送られてくる資料には,東電の実態が綴られている.私は『神道新論』の第二章の中で,次のように書いた.

 地震列島に核力発電所を作ることの危険性は従来からも指摘されてきた。にもかかわらず、東京電力は経済を優先し、万一の場合のためのできうる対策さえしていなかった。福島第一発電所の事故はそのうえで起こったことであり、自然災害を引き金にしたとはいえ、それはまさに人災であり、予測されたことに対する対策さえ怠ったという意味において、犯罪である。
 しかし、さらにそれが惨事であるのは、日本政府や東京電力が核汚染の現実を公にすることなく隠し、本来なら放射線管理区域として厳格な管理のもとにおかれねばならない汚染地域に、人をそのまま住わせていることである。また、避難のために移住する権利さえも保障されていない。このような情報隠し、情報操作によって、避けうる被曝が逆に拡大する。これがまさにいま広がっている。この意味でこれは三重の人災、二重の犯罪である。
 東京電力福島第一発電所の引きおこした核惨事は、かつての十五年戦争の敗北につぐ近代日本の第二の敗北である。

 東電核惨事は,第二の敗北であり,二回目の愚かなことなのだ.本当はこの二度の敗北から教訓を引き出し,世を革めねばならないのだ.それが,『神道新論』の第四章で書いた五項目の神道の教えである.要約すると次のものである.

 第一に、人はたがいに、尊敬しあい、いたわりあえ。人の力は、世にかえしてゆかねばならない。今の日本では、人は金儲けの資源でしかない。

 第二に、言葉を慈しめ。近代日本の言葉の多くは根をもたない。これでは若者の考える力が育たず、学問の底は浅い。近代日本語を見直せ。

 第三に、ものみな共生しなければならない。核発電所はかならずいのちを侵す。すべからく運転を停止し、後の処理に知恵を絞れ。

 第四に、ものみな循環させよ。拡大しなければ存続しえない現代の資本主義は終焉する。経済が第一の今の世を、人が第一の世に転換せよ。

 第五に、たがいの神道を尊重し、認めあい共生せよ。戦争をしてはならない。専守防衛戦争放棄、これをかたく守れ。

 しかし,アベ政治はこの核惨事をテコにして,当時の民主党政権から政権を奪い,今日に至っている.その背後にあるのが,日本会議神社本庁神道政治連盟といった勢力である.

 その神社本庁が揺れている.神社本庁総長の辞任表明を巡り、神社界上層部に「前代未聞の亀裂」の記事などにあるように,神社本庁とそのまわりの醜い争いごとが噴き出している.靖国神社もそうである.
 もう神社や神道はなくなるのか.あるいはそれぞれの神社がもっと独立してゆくかも知れない.そして.崩壊し潰れるのは,明維持以降の百数十年の歴史しかない,いわゆる国家神道である.これはこうして潰れればよい.その崩壊のあとから,本来の神道が再びよみがえる.しかしそれは、意識的な努力なしにはありえない.それが,『神道新論』の意味である.その第二章で,

 国家神道は、国家を第一にして人を第二とする。それは現実には、国家の戦争に人々を動員するための役割をはたした。
 そしてついにあの十五年戦争にいたる。この戦争は日本の歴史において未曾有のことであった。南太平洋から東南アジア、東北アジア、中国大陸と朝鮮半島、いわば日本列島に住むものの祖先の地のすべてに兵を進めた。そして敗北した。
 国家神道とは、日本神道の真逆のものであった。

と書いたが,それがこのように早くも現実の過程となるとは、という思いである.

 この日本は非西洋にあって最初に西洋化し、そして百五十年、いままさに没落の瀬戸際にある.没落し,かつてこのような非西洋の国があったと後世の世界史の中の一幕となるのも致し方なしと考えて来た.日本というところは,いったんはそこまでいかねばならないのかも知れない.
 そしてそこで,それでもそこに生き残る人らがそこから立ちあがるときに,よるべき言葉がいる.それを言い残し置かんと『神道新論』を書いた.力およばずであるが問題の提起にはなっていると確信する.

 近代が覆いかくした日本の言葉をほりさげ今に取り出そうと試み,それを青空学園日本語科に書き置いてきた.それは,高校生の考える力の衰えを実感し,その根源が根なし草の近代日本語にあることに思い至ったことがはじまりであったが,そのような近代の行きつく果てに直面して,考えてきたことはやはり必要なことであったと思う.

 近代の果てとしてのアベ政治は,同時に資本主義の閉塞の中でいっそう悲惨なものとして現れている.この行きつくところから,転換を求めて立ちあがる人の内実を書きたいと思った.そうしてまとめた『神道新論』が,それなりに時代と一体であり,歴史の要求に呼応していることが,いくつかのことをとおして確認できた.

 そして,そういうことをしているものとして,街頭に出て意志を表そうとしてきた.かつては関電前集会に毎週金曜日,参加してきた.今は梅田解放区に駆けつけ,若い人らを支援して横断幕をもっている.いつも,ここに立って,街ゆく若者をながめながら,本当にいろいろ考えさせられる.同時に,一緒にやっている人らのつながりも実感できて,私にとって大切な時間と行動になっている.

 地元に帰れば,自治会の代表をしている.数年前,戦後間もなくから町内にあった私立の中高校が経済的に破綻し,この街から撤退.跡地が住宅街として再開発されることになった.地縁血縁というが,地縁を先においた昔の人の智慧に学び,こういう時代のなかで,少しでも人のつながりあえる街をとやっている.いずれ骨になれば故郷宇治の墓地に還り,父母とともに眠る.それまでの仮の住まいの地であるともいえるが,この地縁を大切にしたいと考えている.

 こんな毎日である.いつまでするのかわからない.いつまでできるのかわからない.しかし,それぞれにこんなことを考えるものが増えていかねば,何ごともはじまらないとも思う.