師走のはじめに


 はや師走である.今朝は町内にある公園の掃除.それを終えて一休みして,これを書きはじめている.昨夜は,梅田解放区の集まりであった.ここに来るようになって,ちょうど一年である.昨年末はじめて参加したときのことは「沖縄今こそ立ちあがろう」の歌に書いた.今日も,この歌をうたってきた.五年前の十二月一日は入院中であった.それを思うと感慨深い.そして,二〇一八年のこの一年は,自分にとってはいろいろ思い,動き,考える一年であった.同時に今年は明治維新から百五十年の節目の年であり,日本のいわゆるアベ政治がゆきつくところまでゆきついたときでもあった.

 この百五十年とはまさに日本の資本主義時代である.明治維新は,当時すでに帝国主義の段階に入っていた西洋世界からの圧力のもと,急いで近代化,つまり資本主義化を行ったものである.そして,西洋帝国主義を真似てアジア・太平洋地域への侵略をすすめた.しかしそれは十五年戦争の敗北に帰結した.
 戦後体制はその敗北を総括することなく,戦前からの官僚制を残したまま作られ,対米従属の下での経済発展を推し進めた.そして終にはあの東京電力福島発電所の核惨事に行きつく.これは十五年戦争の敗北につぐ二度目の敗北であった.だがここから教訓を引き出すこともまたなされなかった.日本の近代は,取り返しのつかないことごとをなしながら,何ごともなかったかのように繕う欺瞞の近代であった.
 省みるどころか逆に,自民党公明党は東電核惨事をテコとして民主党から政権を再奪し,そして生まれたのがアベ政治である.アベ政治とは安倍晋三個人のことではない.資本主義近代のなれの果として現れたものがアベ政治である.資本主義が終焉にむかうなかで,排外主義や偏狭な民族主義が世界のあちこちに現れてきている.日本ではそれがアベ政治となって現れた.そしていま,日本は,アベ政治に連なり,これをあやつる人でなし達がこの世を差配し,アメリカと大域企業に貢ぐために,膨大な軍備費,一貫したハコもの行政をおこない,その一方で,社会保障費,教育保障費,そして何より労働対価を,大きく削減してきた.
 移民法,水道民営化,種子法,そしてTPP.移民法は日本核内の資本のため,日産の8000人派遣切り,パソナの違法派遣切り,シャープの外国人1000人使い捨てなどの実態をさらに拡大してゆく.最低賃金すらたいへん低いのに,その半分で働かす.水道民営化は,ヴェオリア社などのため.種子法はいうまでもなくドイツ企業の吸収されたがモンサントなどのため.そしていわずとしれたTPP.さらに,機雷対処能力を持つ新型護衛艦を順次22隻買い,最新鋭ステルス戦闘機「F35」を米国からさらに最大100機追加取得しようとしている.

 地球は有限である.拡大しなければ存続し得ないのが資本主義である.もうこれまでのようなあり方はできない.軍需産業を柱に世界大に拡大してきた大域資本主義は,アメリカ本国ではもう儲からない.最後のあがきとして,日本をできるところまで食い尽くそうとしている.アベ政治とは,それに奉仕する体制なのだ.さらに昨日,経済産業省が新たな小型原発の開発を進めようとしていることが報じられた.これもまた,大域資本主義に奉仕することでしかない.
 近代日本や西欧の帝国主義に苦しめられ,それに対して闘い,戦後はまたアメリカを後ろ盾とする独裁政権とも闘ってきたところが,今日の歴史でははるかに先を行き,帝国アメリカの衰退を見越して次の段階の準備をしている.中国やロシアそして欧州もまた,アメリカ後の世界の準備をはじめている.トランプのアメリカ自体が,覇権国家から脱却しようとしている.

 これに対して,日本列島弧の政治は古い体制のもとでの延命を図るばかりで,歴史の現在からはるかに遅れている.東洋の島国日本は,大域資本主義に食い尽くされ,さらに核汚染にさらされ,人々は困窮し,空しく落ちぶれてゆく.非西洋で最初に近代化,つまりは資本主義化した日本が,百五十年を経て大きく変わろうとしている.世を支え働く人々は,ものも心もまったく貧しいところに追いやられている.これは資本主義日本の世の衰退そのものであり,行きつくところ,つまりは失敗国家となってゆくことが避けがたい.

 先日もフランスではガソリン代の値上げに反対して多くの人が立ちあがり,凱旋門も占拠された.「黄色いベスト運動」などに詳しい.1日にもあった.ここにも詳しい.日本のアベ政治は,フランスのマクロン政治よりはるかに悪質である.森加計疑獄は受託収賄罪という首相の犯罪である.これをないことにするのか.「 モリカケは忘れ去られたのか 鳴りを潜めた報道」を見てほしい.

 だがそれを許しているのは,われわれである.なぜ日本人は怒らないのか,立ちあがらないのか.昨夜,ここで語っていた人らの思いである.私は,たとえ今はまだ街頭に出て語る人らが少数であっても,世がゆきつくところまでゆきついたときに,そこから立ちあがる契機となるし,このような火はともし続けねばと考えている.私にとって,路上は本当にいろいろ考えるところだ.

 最後の写真は十日ほど前の夕方に撮った京都三条上がる祇園白川とその堤の緑に写る私自身の影である.京都という街はほんとうに自分の体の一部のようだ.京都で仕事があるときは,時間があれば少し早めに出て,京都の街中やその近郊,吉祥院,山崎,北白川などあちこち歩く.

 これからの自分の仕事として,『高校数学の方法』の第8版の制作や改訂と『解析基礎』の複素関数の増補,そして『日本語定義集』の第4版を深め改訂すること、この三つはやりおきたい.一日いろいろ考えて,それを確認した.改訂したものをいつ公開できるかはわからない.が,準備も入れれば二〇年,公開してからでも十二年以上やってきたことの仕上げなので,じっくりやりたい.実はもう一つ,青空学園数学科の英語版を作りたかった.十年以上前,準備もはじめたのだが,こればかりは力不足というか、訳してゆく時間がなかった.訳の価値ありと認めてくれる次の世代に託すしかない.