暗夜の奇祭・県祭

 6月5日は、私の故郷宇治の県(あがた)祭であった.地元の新聞,洛南タイムスの記事.城南新報の記事.火曜の夜は京都駅近くで仕事なので,少し早く家を出て宇治の街を廻ってきた.県祭のことは『個人史』「故郷宇治」ー「四季と祭り」に書いているが,神社はもとより,この祭りもまことに古くからある.個人史にある写真は,もう14,5年も前のものだ.確かにあの頃行ったことがある.もうそれから15年かとも思う.法事や市役所に用事とかでときどき宇治に戻るのだが,いつも宇治の街におり立てば,時間を越えて懐かしい.ここにも書いたように,県祭は真夜中には梵天のお渡りがある.昔は,大阪からの人が,街道筋の家々に泊まって,このお渡りをむかえたものである.今回は明るいうちだけ行ってきた.
 宇治駅から露店の間を歩いて県神社に参る.それから県通りを下って平等院の門前まで行く.このあたりは幼稚園や小学校1年のときの通学路であった.そこに立っているご先祖の辻利右衛門の像にあいさつする.江戸時代末期に宇治茶を再興した人である.また近年,抹茶の甘菓子を作りだし流行らせたのも利右衛門の一族である.そこから参道を北に歩く.この通りには小学校の同級生が親の代からの茶の店をやっている.そこに立ち寄り,茶をもらう.さっきもOさん夫妻が立ち寄ってくれた,と同級生のことを聞く.6年間組替がなかったので,皆よく知っている.そして和菓子を買って,宇治橋を渡り京阪電車宇治駅で電車に乗った.
 木幡駅で降りてJRの木幡駅に行く.途中で,許波多(こはた)神社に参る.宇治は琵琶湖を出た宇治川が山間を抜けて作った小さな扇状地にある.かつては「許(こ)の国」であった.その北の端,それが許端ーこはたー木幡と今日に続く.許波多神社はその境にあり,そこを守る塞神社ではなかったかと思う.
 木幡駅で電車を待っていると同じ職場の先生が来る.広島の人だが,ここに住んでもう四半世紀,木幡は住みよいところだと言っておられた.こちらは23歳で宇治を出たのだから,この人の方が宇治は長い.
 宇治の街は,昔は関電やニチレイの社宅などもあり茶問屋と住宅街であった.いまは観光地である.右の写真の,三の間といわれる欄干が張り出したところに写っているのは,和服を着た中国人であった.こういう観光客が増えた.京都,伏見稲荷,宇治,奈良は,同じ宇治線の並びの観光地で,外国人がほんとうに多い.電車は半分くらいいろいろな国の人が乗っている.宇治は平等院だけではなく宇治上神社興聖寺三室戸寺,少し離れて黄檗山万福寺もあり,観光地として整備されてきた.その一方で,地元の子供は減っている.私の出た莵道小学校,昔は45人学級が5クラスであったが,今は1クラス確保するのがやっととのこと.まわりに小学校がいろいろ新設されたこともあるが,私もそうなのだが,古い街からみんな出て行ったのだ.
 これからどうなるのかとも思うが,しかしまた,宇治橋ができてからもう1400年である.この街はこれからもいろいろ姿と形を変えても,続いてゆくだろう.平等院の裏街道に県神社があり,さらにその南側の山麓に,親や親戚一同が眠る善法の墓地がある.ここには山本宣治の墓もある.死んだらここに還るのだが,それはそうとして,歩けるうちにもう少しいろいろ廻りたいと思った.小さいころは知らなかった路地や,はじめて通る道もある.宇治の街を歩くと,歴史時代からでも2000年,人はこうしてやってきたのだと思う.そしてまた,人がこの世に現れた意味は何だろうと,考えてしまう.
 私が,近代日本語の翻訳のために作られた言葉になじめず,またその意味が分からず,それでもういちど日本語を近代以前から見直してゆこうと考えるようになったのは,こういう宇治の風土が関係しているかもしれない.この風土を断ち切る近代ではだめなのだ。そして,言葉の段階で古よりの智恵を掘り下げておけば,たとえこのような風土そのものが一旦は失われても,近代そのものが行きづまる中で、もういちどこれを見直し,再生と再建の道を歩むものが現れるにちがいない.このように考えて,青空学園を場にして,力およばずではあるが,数学と日本語の世界で多くの文章を書いてきた.最近,阪大を中退して青空学園で勉強し,新しい学びの場を作ろうとしている若い人もいるとのことを聞いた.
 いま,この近代のなれの果てが具体的な形となってわれわれの前にある.宇治の街を歩きながらこんなことも考え,もう少しやらねばと思った次第である.