維新政治からアベ政治へ

昨夜も,梅田解放区は行われていたが,こちらは用事で行けなかった.来週も京都で座禅の会があり,行けない.
一昨夜は七夕であった.降り続いた雨はようやくに少し小ぶりとなり,どうなることかと思っていたが,なんとしても開催するということで,森友学園問題を考える会(FBtwitt)主催の,「民集会 森友学園問題から大阪維新の会のヤミを暴く!!」に参加してきた.大雨が上がったばかりで,阪急の運行さえどうなるかと思ったが,それにしては多くの人が参加していた.いつも梅田で会い顔見知りにあった人や,昔からの知りあいのTさんにも会う.彼はいちど飲みに行こうやといっているのだが,いつも車.「来るとわかっていたら車置いてきたのに」といわれてしまった.
阪急宝塚線「曽根」から徒歩5分のところにあるアクア文化ホールで夜の7時からであった.片岡伸行(『週刊金曜日』)さん,横田一(ジャーナリスト)さん,木村真豊中市議(森友学園問題を考える会)の三人による討論と,大阪府議会での森友問題追及についてということで,共産党大阪府議の石川たえさんと,元豊中市議の山本いっとく(森友学園問題を考える会)さんのやりとりとが,おこなわれた.そして,大川弁護士の報告があり,IWJにも録画がある.
森友学園問題については,森友学園問題の真相は何か 初めから今までを見直す→真相はどこにあるのかに詳しい.こちらはもらった片岡伸行さんの資料と横田一さんの資料を読みながら,それを結びつけることで,ああそうかという,私自身にとっての発見があった.私は前から,
2018-05-13 『東北ショック・ドクトリン』,2018-04-29 歴史は動く,2018-03-12 3.11の日に,2018-01-17 阪神淡路大地震から23年,2017-01-07 七草粥,2015-08-21 歴史を教訓に!などで,今日のアベ政治は,福島の核惨事を「ショック・ドクトリン」とする「惨事便乗型資本主義」として生まれたものであると書いてきたが,東北大地震と東電核惨事をショックドクトリンとしてアベ政治を生み出す上で,実際に動いてきたのが大阪維新の会であるということを再確認した.
2012年2月26日,民主党政権の時代に,大阪で八木秀次が主催した教育に関するシンポジュウムで,安倍晋三大阪府知事松井一郎大阪府知事と,その教育観と教育行政,政治による教育支配をめぐって大いに共鳴,意気投合した2人は,居酒屋へ場を移して教育談義に盛り上がった.大阪府では,2011年に国旗国歌条例が成立して,教職員に「日の丸・君が代」の強制が始まった.大阪維新の会日本会議を背景とする安倍晋三の二人三脚がはじまる.
第一次安倍政権下で教育基本法を改正し,「愛国心」を教育の根幹に据えようと提唱してきた安倍晋三にとって,「教育勅語」を毎日暗唱させる森友学園の教育方針は素晴らしいものと映ったに違いない.その1ヵ月半後、大阪府森友学園の要請を受けて学校設置基準を緩和した.また,大阪府はさらに2012年には職員基本条例を作り,「君が代」不起立を三回すると免職にするとされている.アベが森友学園やこの基本条例を全国に広げたいと考え,これらを行政主導でおしすすめる松井府政を見て,当時の安倍晋三は力を得たのだろう.これが出発点といえる。
2012年4月9日,野田佳彦首相と原発関係3閣僚は,大飯原発の安全対策の実施計画などに対し,安全性に関する判断基準に「おおむね適合している」ことを確認した.このとき,当時の橋本徹大阪市長は「大飯原発再稼働をする政権打倒」と叫び,東電核惨事発生の1年後の時点で,人々に期待をもたせ,そしてこれは再稼働を容認する民主党政権への反感を煽った.当の橋本自身は2012年5月31日、関西電力大飯原子力発電所の運転再開を「事実上容認する」,「反対し続けなかったことに責任を感じている。正直、負けたと思われてもしかたない」などと発言,あえて混乱を引き起こす.
そのなかで,2012年秋,野田内閣は崩壊,11月16日に衆議院が解散,12月16日に実施された第46回衆議院議員総選挙民主党が大敗,12月26日に野田内閣は総辞職し、アベ政権が生まれるのである.東北大地震と東電核惨事からそれをてこにアベ政治を生み出すうえで,橋下徹大阪維新の会が中心的な役割を果たしたのだ.そして,森友問題は,全国的にはそのようには見られていないかも知れないが,実は松井大阪府政と大阪維新の会がいちばん中心にあり,これは実際のところ,アベ政治に先駆ける大阪維新の会の大阪での政治が引き起こしたものである.アベ政治大阪維新政治の全国版である.
日本における、東北地震と福島核惨事からアベ政治への道は,ナオミクラインの『ショックドクトリン』が出た以降の,最大の歴史事件である.そういうものとしてさらに分析し記録しなければならない.そのことを確認した.集会は,大阪の地元から,この維新政治への闘いを広げてゆこうということを呼びかけて終わった.