秋は未だ来ぬ

 八月も終わりはや九月である.夏の終わりに秋を感じるのがこの時期なのだが,まだ風の音に秋を感じることはできない.あいかわらず残暑である.
 二日の今日は,朝から公園の掃除.午前中は原稿仕事をこなし,午後は,大阪市中央会館で開かれた「Go West, Come West!!! 3.11東北・関東 放射能汚染からの避難者と仲間たち集会」vol.6 に参加してきた.ツイッター.東北や関東から西に避難してきた人らと関西人の協働の場で,これまでもいろいろ取り組まれた来たが,こちらの参加ははじめてであった.八月六日,広島原爆の日に,神戸に母子避難してきた人で今日報告してくれた人が,原爆ドームの近くで訴えると,その後になって,広島県警の上からの指示による参加者Aさんの逮捕,10間の拘留という,まったくのアベ政治による弾圧があった.それをはねのけ,その報告が中心の集会であった.
 アベ政治は,広島・長崎の原爆惨禍と,福島核惨事が,人々の中で結びつくことを恐れている.だから関東からの避難者の彼女が広島で英語で訴えたことを弾圧してきた.私は自著で,

 地震列島に核力発電所を作ることの危険性は従来からも指摘されてきた。にもかかわらず、東京電力は経済を優先し、万一の場合のためのできうる対策さえしていなかった。福島第一発電所の事故はそのうえで起こったことであり、自然災害を引き金にしたとはいえ、それはまさに人災であり、予測されたことに対する対策さえ怠ったという意味において、犯罪である。
 しかし、さらにそれが惨事であるのは、日本政府や東京電力が核汚染の現実を公にすることなく隠し、本来なら放射線管理区域として厳格な管理のもとにおかれねばならない汚染地域に、人をそのまま住わせていることである。また、避難のために移住する権利さえも保障されていない。このような情報隠し、情報操作によって、避けうる被曝が逆に拡大する。これがまさにいま広がっている。この意味でこれは三重の人災、二重の犯罪である。

と書いたが,アベ政治は二重の犯罪のうえにさらにいま権力犯罪を犯している.実際に避難の当事者から話しを聞くと,私の書いたことはまさにその通りであるが,この現実の困難をわたしの一文はどれだけ捉えられているのかと自問せざるを得ない.そして,ほんとうにこの日本はどうなってゆくのかと思う.再稼働反対は,私の立場からしてもとより当然であり,数年間,関電前金曜行動にも参加してきたが,関東や東北の核惨事の現実にどのように向きあってゆくのかということはなかなか見えていなかったことを痛感する.私の係わっている不登校の子の居場所づくりの場にも,福島から避難してきて学校に行けない,行かない子がいる.ほんとうに今の日本は学校そのものがそんな子を受け入れることができないし,魅力もない.
 このような世のあり方もまた,アベ政治のこの五年間,それに先立つ規制緩和と格差拡大の小泉政権以来つくられてきたものであるが,これに反対する側はほんとうにバラバラである.沖縄では知事選挙の統一候補に玉城 デニーさんが決まった.沖縄はこうしてアベ政治に対抗する人々が一つになって闘う体制ができた.だが日本の地方政治も含めた全体としていえば,共産党と組むのかどうか,日米安保に対してどういう立場に立つのか,などを分岐点にして,バラバラである.地方政治では立憲民主党自民党と組み共産党候補と争うなどということが,あちこちで起こっている.
 このときいつも思い起こすのは毛沢東の『矛盾論』である.毛沢東は一九三七年八月延安でこれを講演した.何が主要な矛盾であり,何が副次的な矛盾であるのかを見極め闘わねばならない.主要な矛盾は,歴史の発展段階において転換してゆく.これを説いた.当時,第一次国共合作の破綻後,共産党は国民党とまさに死闘を繰り広げていた.そこに,日本軍国主義の侵略が拡り,盧溝橋事件が起こる.共産党は,中国人民と日本軍国主義との矛盾が主要な矛盾であるとの立場に立ち,再びの国共合作を呼びかけ,紆余曲折を経て成立.ついに日本にうち勝つ.そしてその後は再び国共内戦に入ってゆく.
 今の日本では,立憲主義法治主義の政治か,アベ政治か,この矛盾が主要矛盾である.一部の旧民主党系勢力と共産党の矛盾は副次的である.アベ政治に反対し立憲主義を求めるものは,副次矛盾をひとまず横に置いて,分断をのりこえ団結しなければならない.地方政治においても,この方向で統一されねばならない.
ところで,『出版ニュース』二〇一八年8月11日号に『神道新論』の紹介記事が載った.作品社の編集者が知らせてくれた.

 江戸から明冶への新しい時代のために闘った人々を描いた島崎藤村『夜明け前』に登場する青山半蔵は、平田派国学の門人として王政復古によって「古代の素直な心」を新しい世に取り戻そうとしたが、維新はこの夢を裏切り、国家神道という虚構を作りあげ、半蔵は座敷牢で生涯を終える。「素直な心」とは、日本の基層にある真の神道で、これは日本語に備わった、日本語に結実した智慧となるもので、生きる道を指し示していると著者は主張。その教えの第一は、人は互いに尊敬しあうというもので、人を金儲けの資源とすることは神道に背くと説き、「言葉を慈しめ」等の神道の教えを今に蘇らせる。

 短文であるが,的確に紹介してくれている.ただ一点「日本の基層」とあるが,私は「日本」を使っていない.「日本語」や「日本列島」など明確に特定しうる固有名詞の中でのみ用いている.「日本の基層」は「日本語が定める世のその基層」とでも言うべきだ.ここは紹介者の読み込み不足としておこう.
 最近,見田宗介さんの近著『現代社会はどこへ向かうのか―高原の見晴らしを切り開くこと』を読んだ.見田さんの著作はもう四十年前から読んでいる.彼は社会学者である.彼が「高原の見晴らしを切り開」いてくれたうえにたって,現実を動かしてゆくためには,次の時代を作る人の中味を準備してゆかねばならない.近代日本語が覆いかくした「日本語に結実した智慧」をもう一度取り出してゆくことは,その作業の一つである.これが私自身による自著の位置づけである.この秋,このあたりをもう少し深められればと思う.