とんと祭

追伸17日:今日は阪神淡路の震災から二十四年.合掌,黙祷.

 時間の経つのははやい.関西では松の内は十五日まで.それで午前八時前に門松などをもって自転車で越木岩神社までいって,燃やしてきた.越木岩神社ブログもある.昔,小学校の頃は運動場に門松や習字などを持ちよって燃やしていた.子供のころは「どんど焼き」といっていたが,上のブログでは「とんと祭」という.地元の言い方にならう.朝から幾人もの人が門松などをもってやってくる.もう元旦から二週間が過ぎたのだ.
 越木岩神社の奥には甑岩がある.これは『神道新論』の表紙にも使わせてもらった.ここの森は原生林である.このような磐座を古くから守り祈り,そしてその周りの原生林が守られてきた.これは大切なことだ.

  十二日は今年最初の梅田解放区の日であった.寒かったが,参加して横断幕をもつのを手伝ってきた.二十六日は授業があってゆけないが,今年も行けるときは行って手伝うことにしている.年のはじめの梅田は人が本当に多い.道ゆく人々をながめながら,いろいろなことが思い浮かぶ.

 日本というこの非西洋にあって最初に近代化,つまりは資本主義の世になったところが,没落してゆく.いくつものいくつもの教訓を残しながら.「沈没する日本」と特別な1日さんが書いておられるが,今日の趨勢から取り残され,アメリカにはすべて吸い尽くされ,理念なく人の間もつながり断たれ,賃金においても教育条件においても社会福祉においても,この国はもう十分に貧しくなっている.
 どうしてこうなったのか.世は変わり時代が変化しても,その土台は継承され展開しなければならない.日本では,江戸時代までの世のありかたを覆いかくすように,近代をつないだ.根なし草であり,人と人の関係の土台までが崩れたままであった.
 そこでうまくやれたのは,資本家だけであった.その近代資本主義が終焉を迎えたという条件の下,このような根なし草近代の醜い現実が露わになってきている.そのなれの果てがアベ政治に代表される今の世の政治経済の大勢である.

 参加した若い人らが叫んでいたことの一つは,東京五輪は要らないと言うことであった.東京五輪については2013年の「1%による1%のための大会」にその意味を書いている.実際オリンピックの歴史的意味はもう終わっている.大阪では,カジノと万博である.この意味もまたオリンピックと同じであり,人々を愚民化しながら資本主義を世界に拡大してゆく両輪であった.
 この意味で2020年の五輪が不可能となり,これをもって五輪の歴史が終わるというのは,まさに歴史の要求である.しかしそれ以上に現実的な問題は,あの核汚染まみれの東京でオリンピック等やってはならないということである.東京からの避難者である園君ツイッター)のことを考えれば,実際,そうなのだと思う.

 私が年末「年の瀬」中で「しかしこの天皇制の克服ということは,近代主義的な反天皇論とその運動では不可能である.天皇制という根深い大きな木を倒そうとして,地表に出ているところをたたいているだけだ」と書いたが,この内容に関して,ではどうしてゆけばよいのかという質問があった.当日は立ち話しかできなかった.
 日本というこの列島における天皇制は,階級支配とともにあった.これを忘れてはならない.であるから,階級支配をそのままに天皇制だけをなくそうとしてもそれはありえない.そしていまは資本主義の終焉期である.資本主義はマルクスが明らかにしたように最後の階級社会である.
 それが終焉期をむかえているからこそ,天皇制の終焉もまた現実問題なのである.これを一体に捉える視点と理念が必要だ.「どうしてゆけばいいのか」という問いに答えることはまだできない.大きなそして長い過程と,その過程を生きる理念が必要である.『神道新論』はその思想的な土台作りの試みの一つであった.やはり,もっと深めねばと思った次第である.