春はまだか

 昨夜は定例の梅田解放区の行動日であった.書店に立ち寄ってから大阪駅の東側にゆくと,もう横断幕があがっている.五時半でもまだ明るい.ずいぶん日が長くなったものだ.それでも風は冷たい.この日の様子は,Yumiさんも写真をのせてくれている
 この時代に生きるものとして,みながそれぞれ自分の思いを語る.翌24日の,沖縄の県民投票のこと,そして天皇在位30周年の行事を政府がおこなうこと,それにあわせて語る人が多かった.

 私は日頃いわゆる元号による時代区分で考えることはない.それでも平成が終わるときに,日本のこれからについて,大きな分岐がはじまることは,歴史の偶然ではあるが,またそこには必然もある.
 平成と区切られる時代はどのような時代であったか.資本主義が終焉期をむかえる中で、平成になって3年目のバブルの崩壊に始まり、規制緩和という名で資本の自己規制をすべて解き,その結果,格差を極限まで拡大し,国民の犠牲のうえに資本にすべてを捧げる方向に進んだ時代であった.
 資本主義が地球の有限性のうえに外には拡大できない中で,これまでのようにゆこうとすれば自国民からの収奪を拡大するより他なく,政治もまたそれに奉仕してきた.
 それがアベ政治に行きついて,もはやこの先はないというところにきて,平成が終わる.この先どうするのか.
 またこの30年間には,阪神淡路大震災があった.その後,東北大地震が起こり,東京電力福島第一発電所の核惨事が引き起こされる.東電核惨事では企業の責任は問われず,いまなお原子力災害非常事態宣言中であるにもかかわらず,政府はそれを隠して復興だ帰還だと言う.いずれ南海トラフは動く.にもかかわらず原発は再稼働されてゆく.まだ分からないのかという声が聞こえる.
 これが平成と言われる時代のことごとである.
 なぜ人々は怒らないのか.この政治を変えるために立ちあがらないのか.日本の方がフランスよりずっとひどい状況なのに,フランス人は立ち上がり,日本人は黙って耐える.なぜか.そのわけをひと言でいえば、竹内好が「一木一草に天皇制がある」(「権力と芸術」、講座『現代芸術』第二巻、所収)という天皇制である.近代の天皇制とは,根拠を問うこともなく自分で考えないようにしむけ,国民を統合するために,国家神道と一体に再編されたものである.
 そしてそれは,戦後の象徴天皇制に繋がる.天皇の名のもと,鬼畜米英を撃てとあれだけ国民を戦争にかりたてておきながら,その責任は一切問われることなく,戦後は一転,対米従属をおししすすめる.
 これが今日に続き,そのなれの果てとして,アベ政治に至るのである.ここに,近代日本の分岐が平成の終わりにはじまる必然がある.であるから,この期に及んで,それでも経済を拡大しようとする諸々の勢力が,代替わりをアベ政治の煙幕に使うことにまどわされてはならない.

  季節の春はもうすぐだ.政治の春はまだまだ遠い.