国が滅びるとき

 国が滅びるとき,などといえば,「どこのこと?」ときかれるかもしれない.いや,この足元の日本だよと答えれば,「何を言っているのか」と思われる人も多いだろう.その意味は,この国が人の国ではなくなるということである.かつて阪神淡路大震災のあとの国家の非人間性を告発した小田実さんは同じ西宮の市民だったが,『これは「人間」の国か』を表した.東北の大地震と東電の核惨事のあと,再び同じことがを言わねばならない.それを言っている雁屋哲さんのブログを後で引用する.

 さて,桜もほぼ散り,これから新緑の時節となってゆく.こうやってこの列島では季節がめぐり,そのなかで縄文の時代から弥生の時代,そして今へと人々は日々の生活をしてきた.
 そう思うと,その次に出てくるのが,では福島はどうなのだ.季節はめぐると思いを寄せてゆくことができるのか.また,遠からず南海トラフが動くが,そのとき,西日本の原発で何かあれば,ここもまた変わってしまう.大飯原発,高浜原発などの福井県にある関西電力原発が惨事を起こせば琵琶湖も滅びる.季節の変化を感じとりながら,同時にこんなことも考えてしまう.私は,『神道新論』の最後の節「神道の教え」で

第三に、ものみな共生しなければならない。いのちあるものは、互いを敬い大切にしなければならない。生きとし生けるものを大切にせよ。無言で立つ木々のことを聴け。金儲けを第一に現代の技術で動かすかぎり、核発電所はかならずいのちを侵す。すべからく運転を停止し、後の処理に知恵を絞れ。

と書いたが,二週間前の関西での議会選挙や首長選挙を見ていると,まだまだこれが行われるような世ではないことを確認させられる.日曜日の市議選がどうなるかも注目しているが,立候補しているもの達の顔ぶれを見ると,大勢は変わらない.そのなかで一人,不登校の子をかかえ苦労した親が立候補した.これを応援している.地元の駅でのビラ配布も手伝った.

追伸:22日,その人が 当選した! それでも議会のなかでは少数派である.西宮の行政や議会はまったく古い.これから苦労されるだろう.いろいろと力をあわせてゆきたい.そして豊中の木村議員も 当選した! 朝からこれを確認して一息ついた次第.

 このような今の日本に関して重要な言葉に出会ったので,ここに書いておきたい.またこれに係わる私の考えを,順次書き足してゆきたい.

 それは,漫画家の雁屋哲さんのブログ「雁屋哲の今日もまた」の最新の「奇怪なこと」である.彼はそれを次の言葉で締めくくっておられる。

一つの国が滅びるときには必ずおなじことが起こります。

支配階級の腐敗と傲慢。
政治道徳の退廃。
社会全体の無気力。
社会全体の支配階級の不正をただす勇気の喪失。
同時に、不正と知りながら支配階級に対する社会全体の隷従、媚び、へつらい。
経済の破綻による社会全体の自信喪失。

これは、今の日本にぴったりと当てはまります。
私は社会は良い方向に進んでいくものだと思っていました。
まさか、日本と言う国が駄目になっていくのを自分の目で見ることになるとは思いませんでした。
一番悲しいのは、腐敗した支配者を糾弾することはせず、逆に支配者にとっては不都合な真実を語る人間を、つまはじきする日本の社会の姿です。

このブログに書かれていることはぜひ読み通してほしい.まさにそこに書かれているようなことが今の日本のアベ政治である.

 私はいずれこのようなときが来のではないかと考えてきた.それは『神道新論』の序章で書いたが,鶴見俊輔さんの次の言葉にもあるように,近代の日本語は人が考える言葉ではない,こんな言葉でやっていてはどこかで破綻すると思わざるをえなかった.私が,社会運動をしながら,同時に自らの言葉にこだわるものであったから,このように考えたのだ.

 日本の知識人は欧米の学術をそのまま直訳していて、日本語のように見えますが、実はヨーロッパ語です。それをよくわかっていないのです。そういうものとして操作しているので、根がないのです。しかし、日本語そのものは二千年の長さをもっています。万葉集から風土記から来ている大変なものなのです。万葉集を読んで聞いてわかるのですから。イギリス語、フランス語より深い歴史をもっています。今もそれは生きているのです。この古い言語の意味に、さらにくっついている魑魅魍魎も全部引き受けて、何とか交換する場をつくりたい、それが竹内好の言語の理想です。なぜ、それを生かさないのでしょうか。そこに日本の知識人が行っている平和運動とか、反戦運動がすぐにあがってしまう理由がある、という感じがします。

 それが世界的な資本主義のゆきづまりの中で,福島の核惨事をショックドクトリンとして現実化した.根なし草言葉による根なし草近代,そのなれの果てとしての現代日本である.これらのことは「分水嶺にある近代日本」 を見てほしい. 
 そして,このなれの果ての地から,それでも立ちあがってゆこうとするためには,考える言葉を耕し,言葉に蓄えられた智慧を拓かねばならない.その思いから書き表したのが『神道新論』であった.
 現代において国が滅びるとはどうのような途をたどるのか,それを見定め言葉にしておきたいと考えてきた.人でなしの国,その認識がこの20年のこちらの基礎作業の出発点であった.これからどうなってゆくかも見定めたい.しかしまず,さまざまの言論弾圧が起こるであろう.それに対抗するためには,生活の場からの横のつながりが必要である.「分水嶺にある近代日本」に編集部がつけてくれた前書きが,

資本主義の価値観とは異なる、別の生きる道を模索する人々の運動が、裾野を拡げている。物質的な豊かさを求めるのではなく、人の輝きを奪い尊厳を踏みにじる、そのことへの怒りが人々を突き動かし、世を下から動かしてゆく。そういう時代がはじまっている。

であった.まさにこのような場を拡げ深めてゆかねばならない.その意味では,生きづらさを逆にテコにしてつながるものの力が新しい議員を生み出した経験は,大切にしたい.

 いろいろ考えることを整理し,もう少し準備をして,五月の後半には杉村さんとの対談ができればと考えている.