五月の大阪

 題をいろいろ変えてしまう.「五月の大阪」は,1968年「五月のパリ」の連想である.しかし現実はいろいろな意味でずいぶんと違う.

 11日は定例の梅田解放区の日である.前回の4月27日は地元自治会の総会があり,いけなかった.久しぶりという感じで梅田にいってきた.この土曜日は夜にもいろいろ集会もあり,途中でそこにいく人もあり,参加者は多くなかったが,みな元気にやっていた.私の写真はついたところでのものだが,Yumiさんの報告には,写真もいろいろある.彼女は英国に長くいたそうで,立ち止まって聞いていたアメリカ青年と流暢に話していた.

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 森友学園問題を考える会の人も来ていた.森友疑獄も加計疑獄も終わっていない.首相が収賄と便宜提供の当事者であることが白日の下に曝されても,捜査すらなされない.その安倍をかばうため,公文書を隠蔽・偽造した.基本的な統計も改ざんし,賃金上昇と景気拡大を演出する.実際の賃金は下がり続け,原発は再稼働されてゆく.山本太郎さんも言っているが,子供の7人に1人が貧困,一人暮らしの女性、3人に1人が貧困,である.
 東洋の島国日本は,国際資本に国家と国民を捧げ,さらに核汚染にさらされ,人々は困窮してゆく.この現実は悲惨である.そして,「代替わり」の諸行事とやらで騒ぎたて,現実を見ないようにしむけ,首相の犯罪を「平成」にあった過去のこととして塗り隠してゆく.
 目の前を通り過ぎる若者たちは何を考えているのだろう.同じ若者の語ることを,どのように聞いているのだろう.連休が終わり,この間の騒動を通して,前を通る若者に表情がいっそう無くなったように感じたのは,思い過ごしであろうか.それにしても,なぜ人々は怒らないのか.これはまさに近代日本の教育の結果ではないのか.
 私は,根なし草近代のなれの果てが,今のアベ政治であると考えている.ではここからの活路は,あるのだろうか.こちらができることはしておこうという思いもあって『神道新論』を表したのだが,しかし,世を変えてゆくことは厳しい道である.

f:id:nankai:20190511220512j:plain そんななかでも,七日火曜日,京都で仕事の日の鴨川の七条大橋を下がったところから北に見た叡山や如意ヶ嶽,東山の峰.新緑となる前の黄緑色の木々が東山に目立つ.空は雲一つなく,余りに印象的であった.美しき五月の京都,である.
 しかしこの光景が印象的であればあるほど,関電の高浜原発美浜原発大飯原発はここから遠いものでも100km以内にある.もしそこで核惨事が起これば,この京都の街もまた核汚染にさらされることを思わずにはいられない.なにより琵琶湖の鮒寿司が汚染される.宇治川もまた汚染される.それが福島では現実なのだ.
 原発はもう発電としては不要である.四国電力自然エネルギー供給割合がピーク時に電力需要に対して最大100%以上に達し,1日平均でも52%に達している.九州電力でも,ピーク時に太陽光発電が電力需要の81%に達し、自然エネルギー比率では最大96%に達しているそうだ.資料は環境エネルギー政策研究所より.
 関電も原発の電気は必要ない.原発を動かしているのは,アメリカの核戦略に従属した日本政治である.愚かである.
 そして大阪維新の会である.戦後の自民党は,資本主義が拡大してゆく段階での資本家の党である.そしてこの地球の有限性のゆえに拡大を旨とする資本主義がもはや終焉の段階にに至ったとき,そこに現れたのが,全国政治ではアベ政治であり,大阪では維新の会であった.大阪都構想を表看板に身を切る改革などといいながら,その実はカジノ誘致であり万博誘致である.橋本前市長は改憲を言いはじめている.それもまた,旧来の自民党との違いを際立たせるためである.そしてこの維新が各市議会選挙などを含めて上位を占める.

 国際的にも,維新のような政党がそれぞれのところで出てきている.移民問題が焦点である欧米ではこれが排外主義と結びつき,勢力を伸ばす.
 資本主義が市場を拡大することができなくなったとき,それでも儲けるのは戦争であり,武器産業である.アベ政治は,国内をどれだけ貧困化させても, まさにこの国際的な武器産業にすべてを捧げる政治である.
 しかし戦争はここからの活路とはなり得ない.ではどのような道があるのか.もっとわかりやすく,資本主義の拡大ではなく,ものの循環する世への道を提示してゆくことが必要だ.横断幕をもち道ゆく人々を眺めながら,それを痛感した.