暑い五月

 今年の五月は暑い.天気はいいのだが,関西は五月晴れのさわやかさがない.

 昨日は定例の梅田解放区の日.若い人らががんばってるので横断幕をもつのを手伝ってきた.前に紹介したTさんも,メールをもらっていたが,梅田の西側のヨドバシ前での行動を終えて、東側のこちらに来られていた.他の人がとった当日の写真がここにある.
 維新の会の関係者の暴言が止まらない.発言した当時は日本維新の会に属しその後除名された丸山穂高衆議院議員は,北方四島ビザなし交流の訪問団の一員として国後島を訪問した五月十一日の夜,報道機関の訪問団員への取材に酒に酔って割って入り「戦争しないとどうしようもなくないですか?」などと発言した.その後,週刊誌ではさらにいろいろ書かれている.そして,とうとう衆議院議院運営委員会が24日,理事会に出席して事情を説明するよう求めたところ,丸山は「適応障害」の診断書で欠席した.
 また維新の会が次の参院選で公認する予定の長谷川豊氏は、今年二月の講演会で「日本には江戸時代にあまりよくない歴史がありました。士農工商の下に、穢多・非人、人間以下の存在がいると。でも、人間以下と設定された人たちも、性欲などがあります。当然、乱暴なども働きます」「プロなんだから、犯罪の」などと発言していたことが最近わかった.最初は居直っていたが,部落解放同盟中央本部が抗議し,それから謝罪した.

 かつてドイツでナチスが権力を握ったのは、ドイツの中間層が,第一次大戦で失ったものを戦争をしてでも取りかえそうとする意識をもち、さらにそこにユダヤ人への差別意識が結びついたからだ.ナチスはそれを巧みにもちいて扇動し,議会を牛耳り非常事態法から独裁へと進んだ.
 今回の二人の発言は,かつてのナチスを連想させる.大阪においては,これらの発言を生み出した大阪維新の会が第一の政治勢力である.そして,アベ政治そのものもまたこの二つの発言の思想を行動に移してきた.

 このまま行けば,歴史は二度くりかえすの言葉どおりになる.ナチスドイツとアベ政治.一度目は悲劇として,二度目は歴史の笑いものとして.そう考えるなら,いままさに日本は大きな分岐点にあると言わざるをえない.一月に「分水嶺にある近代日本」に書いたことが,半年も経たないうちにこういう形で具体化してゆくとは思いもよらなかった.この先,衆参同日選挙ともなれば議会はこのようなナチスのたぐいの勢力が圧倒的多数となる.そしてその先にあるのは二度目のヒトラーである.そしてそれに続いての大きな破局,再びの八月十五日である.この日本はそこまでゆかねば変わらないのかとも思う.しかしそれでは犠牲が大きすぎる.かつてのドイツを教訓にして,同じことをくりかえさぬ道はないのかと思う.

 23日の木曜日は,大阪は茨木市にある人民新聞の編集室で,杉村さんと拙著『神道新論』をもとに対談した.これを編集長が録音し記録して,いずれ人民新聞の記事になる.自分ではこう書いているつもりが人はこう読んでいるというようなこともいくつかあり,対話していろいろ展開せねばならないところも見えてきた.根のある変革ということが基本的な問題意識である.これは伝わり共有されただろう.こういう対話がこちらの求めることであったので,ようやくの,一歩の前進であった.
 この数日,仕事の合間に少しずつ考えが育っている.どのような形にまとめられるのかはまだまったく見えないが,青空学園のなかで書きためはじめなければならない.この時代にこちらができることはしておきたい.

5月31日追伸:自分の記録のために書いておく。

 もう五月も終わりである.五月の後半は多くの人に会った.

 16日は,教師になって最初に担任したときの教え子に40年以上経て再会した.
 17日は,1966年入学の京大理学部のフランス語のクラス1組のクラス会.
 23日は,フランス現代思想の杉村さんと拙著について人民新聞の編集室で対談.編集長がいずれ記事にしてくれるだろう.杉村さんには,拙著をもっと展開するべきとの激励を受けた.
 28日は,高校とS1の同級で17日は欠席した由良さんと会った.彼が京都府委員長を務める党派の,京都・吉祥院にある事務所で会った.三年ぶりというところか.
 30日は,同業のM師ら数人と梅田で会食.私と二人で,ある予備校の模試も作っているので,仕事の話が半分.あとは飲み会であった.ビール,泡盛,日本酒と三軒はしごした.

 いずれも,私の人生にとって大きなそして深い意味をもつ人らばかりであった.本当にいろいろ考えさせられる.