ニジノキセキ

 8日金曜日夕方4時から宝塚の公民館で映画『ニジノキセキ』の自主上映会に行ってきた.かつて芦屋の中学校の教員で,地域の解法教育運動を一緒にやっていて今は宝塚で活動しているKさんが,この上映会の案内を、かつての同僚になる妻に送ってきてくれた.
 この映画は,1948年4月24日を頂点にする阪神教育闘争から70年の昨年制作され,今年夏から自主上映がはじまっている.兵庫の民族教育の歩みと在日コリアンの子供たちの声を伝える映画である.映画は,韓国の映画祭と共和国の平壌映画祭に出品され,初の南北同時受賞となった.

 厳しく困難ななかで,民族教育をきり拓いてきた親,生き生きと成長する子どもが,えがかれている.たくさんのことを学ぶことができた.かつてから,阪神教育闘争のことは伝え聞いていたが,『「4.24」教育闘争とは?』にあるような,その中味を詳しく理解していたわけではなかった.1945年の日本の敗戦によって,朝鮮は植民地から解放され,植民地支配の結果として日本に移っていた朝鮮人もまた解放された.そしてまずはじまったのが,朝鮮語を教え,自分たちの教育をおこなう学校の建設であった.それが「ウリハッキョ(われらの学校)」である.全国各地にさまざまの学校ができ,日本の学校と同様の外国人学校として運営されてきた.
 しかしその後,東西冷戦の段階に入るとともに,日本を占領していたアメリカ・GHQ朝鮮人の自主的な教育運動に警戒をはじめる.そして日本の警察を使って弾圧してゆく.閉校命令,廃校命令が相次ぎ,これに対する闘争もまた激しくなる.
 兵庫県内でもいくつかが廃校となってゆくが,阪神教育闘争によって最後の学校が存続するようになる.
 それでもみなが民族学校にゆけたのではない.私が高校教員になってはじめて担任したクラスには金さんという女生徒がいた.祖父が,日本の植民地支配の結果,故郷では食えなくなって日本に渡ってきたということであった.彼女は入学したときから本名であった.一方,この映画にも少し出てくるが,あの当時,朝鮮籍を隠して日本名で通学する子もいた.被差別部落の子が自分の生い立ちを語るのを聞いて,自らの民族を取りもどし,本名を名のった子も同じ学年にいた.あの頃の阪神から神戸の各地での教育運動をいろいろ思い起こした.
 阪神教育闘争から70年.いま教育無償化における朝鮮学校への差別政策の問題が再び現れてきている.それに対するさまざまの取り組みが行われている.この差別政策で学校の運営は経済的に苦しい.しかし,この映画に登場する人々には,自ら築いていたさまざまのことの上に,未来を信じて進むことができる.

 いちばん問われているのは日本のわれわれである.このままでは日本に未来はない.これまでも書いてきたように,アベ政治の下で日本は没落してゆく.北朝鮮外務省の宋日昊・日朝国交正常化担当大使は11月7日,日本を「政治的に(取るに足らない)小さな国」,「沈みつつある島国」で「希望のない荒廃した国」と見なし,北朝鮮の新時代の外交からは日本は排除されていると主張した.彼らがそういうのにはその根拠がある.
 それが,近代日本のまさになれの果てとしてのアベ政治の現実である.アベ政治は,日本をまさにそのようなところに落としこんだのだ.

 そして9日は定例の梅田解放区の日.この日も参加者は多く,道をはさんで2ヵ所で,若い人らと声をあげてきた.私は例によって,マイクはもたず,横断幕をもつのを手伝いながら声をあわせる.2ヵ所でやったので,持ち場を離れられず,あまり写真は撮れなかった.
 ここに来る若者はみな生活は苦しい.また,関東や福島から避難して関西に来ている人らもたいへんである.アベ政治を変えなければ,この困難は続く.そう考えここに来て声をあげる.
 アベ政治とは人を金儲けの資源として搾りとる政治である.そして企業の儲けに対する課税を減らし,消費税を上げる.こうして,格差が拡大し,世がすさんできた.経済でも技術でももう日本はすでに先進国ではない.そして,本来なら公民権が停止され,収監されねばならないような政治犯罪を犯しても,大臣職を退くだけでそれ以上の追究はなされない.司法もアベ政治の一部である.
 人は資源ではない.人としてあること自体が価値である.それを具体化する政治を現実にしなければならない.消費税は廃止し,企業への課税を増やす.最低賃金をすくなくとも1500円にし,同一の労働に対しては,雇用関係のいかんに関わらず,同一の条件を保障する,などなど.子どもを大切にしてともに育てる世に変えてゆく.そんな思いを語る.

 まえに杉村さんが拙著への書評のなかで

西欧から始まったグローバリゼーションは、いまや世界中で、近代日本が抱え込んだのと同じ問題を突きつけている。しかし、21世紀の「革命の長征」は、ここからしか始まらない状況にわれわれは逢着しているのではないか。 

と書かれたが,まさにそうである.すべての問題は,経済ではなく人を第一に,ということなのである.中国と香港の問題も,中国内部の問題も,日本における沖縄の問題も,福島の問題も,南米の闘争も,フランスの黄色いベスト運動も,アメリカの99%による占拠運動も,である.経済を第一とする世から,人を第一とする世への転換の長征,これが現代である.今はまだ世界各地の運動がこの考え方の下で統一しているわけではない.しかしその内容はまさに人としての尊厳をうち立てようとするものである.そして,その前途は長く困難である.