7月の末に

 ようやくに日差しが出てきた.先日「ようやくに梅雨明けか」と書いたが,それからも雨は続いた.7月も末になって,ようやくに夏の日差しである.アブラゼミクマゼミも夏が待ちきれないように鳴く.ところがこの日の夕方,猛烈な夕立になった.梅雨明けの雨かもしれない.
 庭隅のガジュマルも夏を待っている.ガジュマルは,2008年に沖縄に連れて行ってもらって,戻ってきて小さな鉢植えを買った.それが大きくなって3つに鉢分けした.そのうちの1つは霜に当たって枯れてしまった.ガジュマルが寒さに弱いことはよくわかり,寒そうなときは袋をかぶせたり部屋に入れたりしてきた.だからこちらでは沖縄や奄美にあるような大木にはならない.
 沖縄で手に入れたキジムナーの焼きものも,鉢に置いている.ガジュマルの木々に棲む妖怪で,ガジュマルの精霊である.奄美諸島ではケンムンといわれる妖怪伝説があり,これらはいずれも河童ともつながりあるかもしれない.
 ちなみに,私の河童の絵は,宇治川の河童として中学生のころ描いた自画像である.

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 来週から盆のころまではまた授業や地元の会議などが続くが,今週は,夕方1時間犬を連れて歩く以外はあまり出歩かない.

 前回に「歴史の求める課題は,外からこの世を見るのではなく,内から語ることであると思い至った」と書いたが,その課題を考えると,これは1年どころかもっと長い時間が必要と思うようになった.枠組は少しずつ考えはじめたが,これまで書いたものをもとにするのではなく,始めから書く.そうしないとできない.
 『神道新論』の後書きに「原稿を出版社に送ったとき、この一冊を書くのに二十年かかった、と思った」と書いたが,時代の求めることに応えようとすれば,次はもっと時間がかかることだ.
 まず,今という時代が求めるところを取り出す.このあたりからからはじめる.何をなすべきか,それ自体があきらかにされず,共有もされていない.ここに書いて,自分で推敲して,という営みを重ねてゆきたい.
 昔は手書きのノートであった.20年ほど前,それらをPCに打ち込むところからはじめた.それが『神道新論』になってゆく.今回はこの場を使おうと思う.時代とともに道具は変わってゆく.だが,考える軸は変わらない.

 それにしても,今はどのような時代なのか.資本主義の終焉期にあることはまちがいない.しかし,それがどのような道筋をたどるのか,そして次の段階はどのように開かれてゆくのか,それを,現実の分析から導かねばならないが,できていない.
 現象的には,アメリカ国内は分裂し,世界覇権が中国とその同盟国に移り,北欧州は小さくまとまり,そして日本は没落する、とすすむかも知れない.そうであるとしても,その意味は何なのか.これは深く考えなければならない.
 このような一般的な問いかけのなかで,日本の近代は根なし草であったことを問い,それを越える道を,この普遍性のなかで、具体的に述べねばならない.それが私の仕事だ.これは本当に遠い道かも知れない.

追伸8月2日:根なし草言葉で根なし草近代を越えることはできない.今日この言葉に至った.この四半世紀,私を動かしてきた思いである.