没落を生きる

 私は日本の没落を指摘し続けてきた.東アジアにおける日本の没落,世界における日本の没落,それはまさに現前の歴史である.政治,経済,技術,社会規範,すべての分野で今日の日本はまさに悲惨な有様である.そしてこの現実をそれと知るものも少ない.
 いまの日本には,人であることを否定する国家と権力に対して闘うさまざまの運動がある.しかし,この腐敗した政権に対して,人々が怒りをもって立ちあがりこれを倒すために行動するということが起こらない.これは,アベ政治の悲惨さ以上に悲劇的な現実であり,没落の実相である.
 後世,歴史は,日本は戦後政治的にも経済的にも拡大してきたが,アベ政治の7年間で,大きく没落をはじめた,と記すだろう.いまわれわれは後にそのように言われる時代を生きているのである.

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 それでもできることはやろうと,定例の梅田解放区に参加してきた.この日は大阪北の中津の公園に集まり,梅田までデモである.そして東梅田でいつものようにトランペットをならしギターを弾いて,街頭で語る.道をはさんだ両側でやる.アベ政治を暴き,吉村・松井の維新の化けの皮を剥いで,道ゆく人に語りかける.
 この間自分のことで闘ってきた人が語っていた.行動しなければ何も変えることはできない.行動し闘えば必ず変えることができる.その通りだと思う.
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 この日も韓国KBSのいつもの人が取材していた.彼の取材で,この梅田での行動だけではなく,京都市役所前の座り込みやデモ,授業料無償化から排除されている朝鮮学校をめぐる闘い,大阪・釜ヶ崎の野宿者の闘いなどがすでに韓国で報道されている.
 いまの日本の現実が隣国に伝わることはいいことだ.
 私はいつものように一緒に立つ.若者からわれわれのような老人までが一緒にやることには意味があると思う.さまざまの運動の人が横に繋がることこそいちばん大切である.その裾野は広い.自分の生きている場からこの裾野の端にはいたいと思う.終わってから何人かと一緒に食事をして,戻ってきた.

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 われわれは今没落する日本において,その没落の実相を凝視し,それと向きあって生きている.このような行動も,没落する国のなかで,人としての矜持を失わないためのものであり,いまはまったく小さくても,いつか大きな炎となる.私はちょうど二年前あるところに次の一文を寄せた.

 これだけ現前の政治が腐敗しているのに、なぜこれを打破する直接の行動が広がらないのだ。議会政治でも、立憲民主党などは、国政では野党だが、地方では保守政治家と連携するところが多く、地方と国政を一体に、既成の政治を打破するという所からほど遠い。
 二年前、韓国では朴槿恵大統領の退陣を要求する革命的な波が、ガラス窓一枚壊すことなく平和的に街頭を埋めつくし、ついに大統領弾劾が成立して罷免した。その力が文在寅大統領を生み出した。今日の南北対話、米朝対話は、この「ろうそく革命」の結果である。
 韓国には、かつての民主化闘争があり、さかのぼれば日本の植民地支配への抵抗闘争の歴史がある。対して日本は、非西洋にあって最初に近代資本主義に入り、帝国主義侵略と支配を続け、敗戦後はそれを総括することなく一転して対米従属の下に経済拡大を続けてきた。アベ政治はそのなれの果てである。
 これに対抗する力はあまりにも弱い。しかしこれは歴史の産物である。絶望することなく、言うべきことを言い、街頭に出よう。一人一人の行動こそが歴史を創る。

  この思いは今も変わらない.近代という段階には二つの面がある.資本主義の経済拡大と,法による社会規範の実現である.アベ政治はこの社会的規範をすべて崩した.そして経済もまた拡大どころか縮小してきている.
 なぜこうなったのか.日本の近代は根なし草であった.根なし草近代の成れの果てがアベ政治であるということも繰り返し言ってきた.
 このとき,根なし草言葉で根なし草近代を越えることはできないことを確認しなければならない.私はそう考え,青空学園日本語科を置いて言葉を軸に根なし草近代を越える基礎作業をおこなってきた.
 だが、日常活動としての基礎作業とは何か.そしてそれはできているのか.これを考えること自体が日常作業かも知れない.それを含めて考えねばならない.

 8月17日からの1週間,このようなことも考えてきた.いろいろ考えることができた.しかし,何ごともわかったとは言えない段階である.盆に書いたように,どれが自分の一番の仕事かを考え,青空学園数学科こそがそれであることに納得した.そしてこの数日,数学科の制作に時間をかけた.これが数学科の日常活動である.
 昨日,散歩しながら思った.では,日本語科の日常活動とは何であるのか.こうして言葉を綴ること自体が日常活動なのか.根なし草言葉で根なし草近代を越えることはできないとして,ではこの近代を越えてゆくために何をしなければならないのか.
 いまわれわれは,資本主義の終焉期に起こる新たなファシズム,これを許すのか否かの岐路にある.このファシズムは,経済に発展の余地があった時代のどの方向でこれを発展させるのかという段階における,社会主義ファシズム化の対立とは,条件が異なっている.この段階におけるファシズムとの闘い,これがいまの歴史の課題である.
 街頭に立って,このことを考え続けていた.