歴史と向きあう

 住民投票によって,大阪維新の会(代表・松井一郎大阪市長)の吉村知事,松井市長による大阪市解体は阻止された.これまで,大阪市の解体に反対して闘ってきた多くの人に感謝する.私もまたできるところでそのために行動もしてきたので,ようやくに日本でも人民の意思と力で現実を動かせたことに,よかったという気持ちである.
 資本主義がもはや拡大できないという条件の下,日本の政治経済はそれを越える新しい枠組を何一つ作ることができない.その結果,日本が大きく没落してゆく.このなかで,少ない利益をほんの一部に集中させようとするのが,維新やスガが狙った大阪市の解体である.
 百三十年の歴史をもつ大阪市を解体し,権限も財源も「都(府)」に吸い上げ,「一人の指揮官(知事)」のやりたい放題の体制をつくろうとするの維新の会の野望を市民の良識が打ち砕いた.それは,新自由主義段階の資本の放埒な動きの一つを市民が止めたということだ.
 松井市長は大阪市長でありながら大阪市の解体をすすめ,そして市民に拒否されたのである.であるならば,即刻辞めねばならない.松井は今すぐ辞めろと,吉村知事や松井市長,それとつながるスガ首相らの責任を今後とも厳しく追及してゆかねばならない.
 同時に,なぜ維新のような政治を許してきたのか,これについてもっと深く掘り下げて考えねばならない.

 日本では,歴史と向きあい同じ過ちを繰り返さないという思想や運動,それ以前に一人一人が歴史と向きあうこと,これが非常に弱い.

 最近読んだ『時効なき日本軍「慰安婦」問題を問う 』<2020/7,社会評論社,纐纈厚 (著, 編集), 朴容九 (著, 編集), 申琪榮 (著), 李芝英 (著), 韓惠仁 (著), 李相薰 (著), 李哲源 (著), 楊孟哲 (著),松野明久 (著)>において,纐纈さんがこの問題を掘り下げている.
 この書については,いつも梅田解放区で出会うだいさんが彼のブログ「 加害者の孫を生きる ~日本軍「慰安婦」問題のこと、その他のこと」のなかの読書録「纐纈厚・朴容九(編)『時効なき日本軍「慰安婦」問題を問う』」に詳しく書いてくれている.
 この2015年の赤旗の記事にもあるように、1991年、日本の国会では政府が「慰安婦」制度は軍(国)が関わっていたのではなく,民間業者がやったことだと発言した.それに対して,金学順さんが名乗り出て告発した.
 日本は,国家として内から「慰安婦」問題と向きあったのではなかった.問題の無時効性と,そして戦争責任の問題は一貫して回避され続けた.「慰安婦」問題は,普遍的な問題であり,また無時効性をもつ問題である.帝国の侵略における被侵略地の女性に対する人権侵害であり,それはその当事者が亡くなっても,問題を抉り出し責任を追及することにおいて時効ないということである.その追究と歴史の研究交流には、国境を越えて未来を共有する可能性を提案する役割がある.

 そのうえで,もっとも基本的な固有の問題は,近代の日本は,歴史と向きあい教訓を引き出すことをしない世であったということである.ここに,日本近代という固有性に根ざした問題がある.戦後,この「慰安婦」問題と向きあうことなく,形だけを繕い実際には放置したままの日本国家,そして,それを許している人民の問題である.
 それでも,こうして日本近代の歴史を事実から目を背けることなく向きあわせるいろいろな営みがようやくに出てきている.学ぶべきこと,考えるべきことはほんとうに多い.同時に,資本主義を越える新しい人の繋がりを目的意識をもって生みだしてゆく試みもいろいろと出てきた.

 私はこれまでやってきた日本語の掘り下げの基礎作業を,新しい動きに繋いで次の時代を準備してゆくために,何ができるかを考え,なしうることをしてゆきたい.
 そのために『根のある変革への試論』に手を入れてはじめている.これは東電核惨事をうけて「核炉崩壊以降」として書きはじめたのだが,もっと深くあの日本軍国主義と向きあうところまでいかねばならないと考えるようになった.スガ政権の批判はそれをふまえるものでなければならない.
 大きな方向ははっきりしているのだが,書いてゆくのは難しい.力およばずとなるかも知れないが,これはやらねばならないと考えている.その骨子をかいてゆく.

 日本近代は根なし草であった.
 それは一人一人の個の枠組が根をもたないことでり,
 それは,人と人の間においても,その集積としての世のあり方においても,それを規定する枠組が根をもたないことと,一体である.