人々の連合の深まりを

五月である.大阪の関電前金曜行動は来週10日で昨夜はなし.それでということではないが,時間がちょうど空いたので,今日の昼前後,2010年の御堂筋デモで知りあった大阪宣言の会の人らの大阪駅前での宣伝活動を手伝ってきた.毎週日曜日にやっているのだが,今週は土曜日もやるということを聞いていた.いってみると,中年1人以外はみな老人の街頭行動であった.大阪駅の向かいのところで,道路使用許可も取っての街宣である.大阪駅前の人の出は多く,思いの外ビラの受け取りもよく,関心をもつ人が少なくなかったように思う.みなそれぞれマイクで喋るのもうまいものである.こちらも一通り喋ってきた.その後,皆で昼食をとっていろいろこれからのことも相談し,戻ってきた.こちらは行けないが,明日もある.正午前後に梅田へ出られたら立ち寄ってみてほしい.
このような活動は,日本の各地でそれこそ細々と続いている.しかしまだまだそれが連合し,一つの大きな流れになるところには至っていない.4月25日の時事ニュースでは,「生活の党、社民党みどりの風は25日、幹事長会談を開き、夏の参院選では(1)脱原発依存(2)環太平洋連携協定(TPP)参加反対(3)憲法の平和主義の順守−などの共通政策を掲げた上で、選挙協力を行うことで一致」が流れていた.議会内でのこのような動きそのものは必要であり,いいことであるが,それが本当の力になるには,人々の連合が深まって,その行動が議会や選挙での動きを後押しするようでなければならない.それにはまだあまりにも力は弱い.
昨日,憲法記念日の金曜行動のある東京で,その昼間に,26年前に朝日新聞社を攻撃したあの赤報隊を肯定すデモもあったようだ.田中龍作ジャーナル:「 26年を経て“蘇る”赤報隊 現実味帯びる改憲」.憲法の改定が狙うことは,天賦の人権の否定であり,人間としての尊厳の否定であり,人間を国家に従属するものにすることである.時代の閉塞感を逆手にとって,現状を変えるために憲法を変えるという方向に,世論を誘導する.これはそのなかで出てきたものである.
ところで,赤報隊は,もともとは明治革命のときに活躍した相楽総三率いる赤報隊である.慶応三年十月,江戸の薩摩藩邸に入った相楽総三は,集めた同志たちと共に江戸市中を攪乱する命を帯びる.これは,西郷吉之助・大久保一蔵・岩倉具視が立案したもので,江戸幕府を挑発し革命戦争に持ち込もうとするものであった.これに誘われた幕府は薩邸を焼き討ち,これが起因となり鳥羽・伏見の戦いが勃発した.1868年一月二日大坂から京都へ向かう幕府軍を官軍が鳥羽・伏見に迎え討つ.官軍完勝であった.これによって幕府側は朝敵の烙印を押され,大義名分が倒幕派のものとなった.兵庫に上陸し京に着いた相楽に西郷は手を取って涙を流して感謝したという.
しかし赤報隊の最後は悲劇であった.相良総三らは東山道官軍先鋒赤報隊として江戸へ向け中山道を上る.このあたりのことは島崎藤村『夜明け前』にもある.途中農民の助力をたのむため「年貢半減令」の触れを出しながら進む.が,官軍の財政は厳しく,三井などの特権商人に金を借りることになる.商人は無条件で金を貸すことはなく,年貢米の請負を要求し,勅定にある年貢米半減の撤回を条件にした.岩倉らははじめから相楽らの行動に不満の色をなし半減令撤回を求めていた.布告の撤回は,新政府の信用に関わる問題であるから,年貢米半減を旗印にすでに進撃している赤報隊を呼び戻そうとした.聞き入れない相楽隊に対し「偽官軍」であるから召し取るべし,との命が信州諸藩に下された.下諏訪に布陣していた相楽隊は隊長以下幹部連が総督府に弁明のため出向くが捕縛され,1868年三月三日,斬刑に処せられた.総三はまさに従容として死に就いた.二十九歳だった.これが歴史上の赤報隊である.
明治維新のときの赤報隊のことは,前にも書いたが,ここでもはっきり書いておきたかった次第.相楽総三赤報隊のこころざし,そして明治維新に託した夢を,現代において引き継ぐものは,本当は誰なのか.そのこともふくめて,近代日本の歴史をもういちど根本から見直し,これからの方向を考えねばならない時代となった.そして,もう一歩,人々の連合が深まってゆくことを願っている.
写真は久々のカワセミ.6日朝.