夏の盛りに

 先日,ニイニイゼミはもうこのあたりにはいないのかと書いたが,ニイニイゼミの死骸を家の前の道で見つけた.この夏鳴き声は聞けなかったが,まだいるのだ.写真を撮ってから土に還した.

 それにしても暑い.この暑さのなかでのオリンピックなど不可能である.「1%による1%のための大会」に書いたが,いまのオリンピックはまさに 1%による1%のための大会 となっている.この1%にはいわゆる原子力マフィアも入る.原発事故は収拾できるという虚構を演出するために2020年のオリンピックは開催される.この夏の時期を選んだのも1%の側である.しかしこれは大きな失敗だった.このまま開催すれば,選手,ボランティア,観衆の中で熱中症重篤な事態に陥るものが続出する.中断せざるを得ない事態さえ起こるかも知れない.そして日本政府の責任が国際的に問われる.

 この暑さの中ではあるが,日が陰った5時半からは第2第4土曜が定例の梅田解放区であった.参加者も増え,20人を超えていた.徴用工問題や従軍慰安婦問題、辺野古基地問題などを語る.
 ここはほんとうに人通りの多いところだ.道ゆく人のなかにも,こちらの言うことに耳を傾ける人がいる.それでも多くの若者は関わりないように通り過ぎてゆく.彼らのほとんど選挙にも行かなかったのではないか.むしろ,中国人の旅行者が立ち止まってゆく.誰かが訳して説明している.ほう,こんな日本人もいることはいるのだ,というところかも知れない.日本に住む韓国人もまたたちどまる.写真を撮らせてください、と言って撮っていった二人組がいた.また,最後まで向かいに立って聞いていてくれた女性と,もう一人通りがかった男性が,それぞれカンパをくれた.

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 さて昨日,<佐川元国税庁長官ら再び不起訴 大阪地検特捜部、一連の捜査終結 森友学園問題>と報じられた.しかし,森友・加計問題は,佐川元国税庁長官が主役ではない.「分水嶺にある近代日本」に次のように書いたが,安倍首相の収賄こそが問題の本質である.

 今年にいたるこの数年の世のあり様をひと言でいえば、近代国家の枠組とそれを支える柱の崩壊である。
 安倍首相の収賄は首相そのものの犯罪であり、(造船疑獄に比して)はるかに悪質で規模も大きい。また、公文書を偽造し、国家の基本的な統計も改ざん操作してきた安倍政府とその官僚の悪事は、造船疑獄の比ではない。しかし捜査すらなされない。

 首相自身が事実として賄賂を受け取り,そして,森友疑獄では8億円の便宜供応.加計学園疑獄では,?億円の供応.すべてアベの収賄の見返りである.加計疑獄は鮮明である.しかしこのことを指摘する新聞やテレビは皆無である.日本の大手新聞やテレビは報道機関ではない.アベ政治に都合のいいように国民を洗脳する洗脳機関である.それはおさえておきたい.

 そして,収賄首相の居直りは,悲惨国家日本の現実である.それを経済の面から見て,世界的投資家ジム・ロジャーズが次のように言う.

「私は日本関連資産を全て手放した」
~日本の凋落ぶりには、めまいがする

 将来のことを考えれば、日本政府がただちにやるべきことは、財政支出を大幅に削減し、同時に減税を進めることです。この2つを断行すれば、状況は劇的に改善したはずです。
 安倍首相がやったのはすべてこれとは真逆のことでした。彼が借金に目をつぶっているのは、最終的に借金を返さなくてはならない局面になったときには、自分はすでにこの世にいないからなのでしょう。
 これから20~30年後に歴史を振り返ったとき、安倍首相は、日本の経済に致命傷を与えアジア最貧国へ転落させた人物として、その名を刻んでいるはずです。

 彼は投資家なので経済面からいうが,しかしこれは経済だけの問題ではない.近代国家の枠組とそれを支える柱の崩壊は,政治においても,それをとおして世のあり方そのもにおいて,そして国家としての対外関係において,すべての面で起こっている.
 つくずく,愚かなことは二度くりかえさないと,教訓とはならないのか,と思う.
 「再びドイツまで」にも書いたが,ドイツはまさにその愚かなことを二度くりかえした.ごく普通に生活してきた人が,状況によってヒトラーを賛美するようになることを大きな痛みとともに教訓とし,それが教育を通して若い人らにも伝えられている.
 「【特集】ドイツの若者は慰安婦問題を扱った映画「主戦場」をどう見たか
「歴史を知る」。それは「問い続ける」ということ
」を読むと,そのことがよくわかる.
 それに対して,日本もまたあの戦争の敗北とそして福島の核惨事と二度の愚かなことをしながら,そこから教訓を引き出せていないことをつくづくと思い知る.それどころか,福島の核惨事を逆手にとって,近代国家の枠組とそれを支える柱を崩壊させ,アベ政治が生まれたのだ.ロジャーズは経済面から「最貧国」といったが,このままでは人そのものが大きく崩れ,人でなし国家となる.
 「韓国存亡の危機。日米中ロ北の四面楚歌状態」などという論調が大手を振って語られるが,存亡の危機にあるのはこの日本である.日本の植民地支配への抵抗,戦後のアメリカ傀儡の李承晩や朴政権との闘いなどを通して,韓国の人々はずっと先を行っている.我々ははるかにおくれている.アベ政治は韓国への差別意識を煽りそれを政権維持に利用しているが,まったくこれは哀れなことなのだ.
 あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」展示中止事件で脅迫FAX送付の男が逮捕されたが,少女像展示を認めた大村秀章・愛知県知事を「辞職相当だと思う」と批判した吉村洋文・大阪府知事に対し,大村知事は「はっきり言って哀れだ」と逆に批判している.まったくその通りであり,大阪府民は,その愚かさを哀れみをもって指摘されるほどの者を知事にしている.このことに気づかねばならない.

 哀れな首相,哀れな知事,である.やはり我々は二度目の愚かな破局に向かっているのかも知れない.しかしそれでは犠牲が大きすぎる.それでも,非西洋で最初に近代化=資本主義化した日本の,人類史的な経験としてそれもありうるという立場から,そこからもういちど立ち上がるそのためのささやかな準備として書いたのが『神道新論』であった.われわれの世代は見とどけることができなかも知れない.誰かこれを見とどけてほしいとつくづく思う.
 奄美大島に行き,青空学園を20年をふりかえり,そういう者としてアベやめろと梅田に立つ.小さなことしかできないが,それでいいではないか.

青空学園二十年

 セミの鳴き声が続いている.昔は,7月にニイニイゼミが鳴きはじめ,それからアブラゼミになってゆくのだったが,近年はニイニイゼミの声を聞かず,代わりに始めからクマゼミアブラゼミである.それだけ暑くなったのだろうか.
 小旅行のあと,いろいろ来し方をふりかえるときがある.ちょうどそのおり,青空学園をはじめて20年目の夏となった.今後のために少しふりかえっておく.サイトの玄関下には「1999.8.27~」としているが,初期のファイルを見ると1999年の4月~8月というのがいくつかある.この頃いろいろ作り始めていたのだ.26歳で働きはじめて昼夜のない生活をしていたのに,それから四半世紀たった1999年の春に専任講師になり,普段は一日4時間夜に授業をすればよいということになった.それで,昼間に,いろいろ勉強をはじめたのだ.そして「専任をおりる」まで13年続いた.こういう時間が得られたことを感謝している.
 昔,高校のとき数学同好会を友人と2人で作って,問題を立てて考えたり,数学教師と群論の入門書の輪読したりしていた.しかし実際の数学的現象を掘り下げ探究するということはできなかった.高校生のときの自分が今の自分に出会ったいたら,もっといろいろ学べただろうという思いがある.今の自分が時空を越えて高校生の自分にいろいろ教えたい気持ちだ.『数学対話』はそういう気持ちから,今の自分が昔の高校時代の自分と対話しながら書いてきた.青空学園数学科の原点は高校時代の数学同好会にある.

 受験生に数学を教えるにあたって,たとえ受験数学の場であったも,それでも出会った子らには根拠を問う数学を伝えたかったし,また数学をほんとうに教えるためには,それぞれの問題の背景や一般化をつかんでいなければならなかった.そのように考え,勉強した.そして高校数学といえば受験数学でしかない現実に対して,少しでも学問としての高校数学を事実として展開してゆきたいと考えた.同時に,高校生の現実としての受験数学から離れないように,実際の問題を掘り下げることを出発とした.
 『数学対話』のなかの「スツルムの定理」,「原始多項式」,「チェビシェフの多項式」,「カタラン数」,「ムーアヘッドの不等式とその応用」,「単位分数のエジプト分数による下からの近似」,「シュタイナー楕円」,「ポンスレの定理」,「生成関数の方法」などはみな,入試問題からはじめている.
 かつて私は「大学解体」が言われた68年の時代に学生生活を送った.もっともそれで大学院をやめたということではない.院をやめ高校教員になったのはもっと内的な理由からであったが,当時の大学の現実にこれではだめだと思ったことも間違いはない.そして,高校生に数学を教えることをいろいろな立場から続けることで,改めて確認したのは,やはり20歳前後の人を対象とする教育機関は必要だということであった.しかし,それに応えうるものは現実には存在しないし,今はまだ存在しえない.そこで電脳空間に仮想の学園を作り置こう,それが青空学園をはじめたもう一つの動機であった.

 現場の教員がこれらを自分で勉強するには時間がないだろうと思い,古典にも当たって勉強し,それを書いて公にしてきたのだ.先日も書いたのだが,青空学園数学科では,現在 A4版のPDFで3200枚になるものを,HTMLで公開し,PDFも自由にとれるようにしている.数学が少しでも根づくようにと願って無償で公開してきた.これは私の信条にもとづくものである.これができるようになったのは情報技術の発展の結果であり,その意味で青空学園は必然であった.
 青空学園のサイトを見て,もう少し今風に見栄えのする形にしてはという意見も聞く.しかし,もともと自分が考える場として作ったものであるし,HTMLファイルで内容を確認したら,PDFファイルを入手してそれを印刷して,手を動かして勉強してほしい.その点からいえば,HTMLファイルはあくまでその導入のためにある.
 教科書風の受験対策の数学参考書は多くある.その一方で,おもしろく書いた読み物もある.しかし,高校から大学範囲の数学を,学問としての立場からそれなりに探究し書き表したものはほとんどない.そのような文化は日本ではまだ育っていない.そこで,そのような試みの跡を残しておこうと,これをやってきた.
 青空学園数学科の訪問者数は一日で100人前後ある.検索で来るのが半分くらいはありそうであるが,いずれにせよそれだけの人がここに来て,何かを考えている.また,元原稿を含めてDVDRに焼いて実費で配布している.2002年からはじめて,270枚超の申し込みがあった.こんなことからも,逆にまた責任も大きいことを思う.

 青空学園数学科でまだやり残しているのが,『解析基礎』のなかの「複素解析」である.書棚の本をいろいろみて一松信先生の『函数論入門』を再読することにした.これは高校2年の頃に買って,しかしこの本の通読はできていないままであった.大学に入ってから買った吉田洋一先生の『函数論第2版』とあわせて,勉強する.そして,やり残しているところを,自分の理解にもとづいて仕上げたい.この課題を再確認したのも,この数日の成果である.
 ついでに書いておけば,仕事の方も当面忙しい.2つの問題づくりとその解答解説の原稿作成である.盆まで,9月はじめまで,等々締め切りもいろいろあることを念頭においておこう.そうしないと後回しになってしまう.

 青空学園では同時に,日本語科も開設してきた.日本語科でやってきたことは,根のある思想を構築するための土台作りである.『日本語定義集』はそのためのまさに前提をなす作業であった.それがようやく一定の蓄積ができ,人に語ることができる段階になり,一連の文章を雑誌に寄稿し,それらをまとめて加筆し『神道新論』として公にしてきた.
 これもまた,近代の翻訳日本語に大きな違和感をもった高校時代の自分の気持ちが出発点である.ラッセルの『西洋哲学史要』,確かみすず書房だったと思うが,これを図書館で借りてくりかえし読んだ.しかしあのとき「思考」とはどのように頭を働かせることなのか分からなかった.今はこれを「根なし草近代の言葉」としてとらえているが,当時は違和感だけが残った.

 だから,私が青空学園をはじめたのは,このような自分の高校時代の数学と日本語における疑問などに応えうる教育組織を,とりあえずは電脳空間に作りおこうということであった.
 しかし,まったく道は遠い.この日本は非西洋にあって最初に西洋化し、そして150年、いままさに没落の瀬戸際にある.近代の果てとしてのアベ政治は,同時に資本主義の閉塞の中でいっそう悲惨なものとして現れている.没落し,かつてこのような非西洋の国があったと後世の世界史の中の一幕となるのも致し方なしと考えて来た.日本というところは,いったんはそこまでいかねばならないのかも知れない.
 そしてそこで,それでもそこに生き残る人らがそこから立ちあがるときに,よるべき言葉がいる.根のある変革思想の礎として,それを言い残し置かんと『神道新論』を書いたのだ.力およばずであるが問題の提起にはなっていると確信する.
 それはまた,自分が高校生に教えて,今の高校生の考える力の衰えを実感し,その根源が根なし草の近代日本語にあることに思い至ったことがはじまりであったが,そのような近代の行きつく果てに直面して,考えてきたことはやはり必要なことであったと思う.
 闇夜のなかの破壊の瓦礫の中から,新たにたちあがってゆくとき,生きた言葉とそれにもとづいて根拠を問う学問が,不可欠である.非力かつささやかではあるが,できるところからその準備をしてゆこう,それが,これをはじめたときに考えたことである.そしてまた私の考えは,まだ全くの少数である.日本語科の一日の訪問者は数人である.しかし,いずれ,多くの人がそうだと考える時がくると信じている.

 私は,理系人間でも文系人間でもなかった.理系,文系という高校から大学での分け方は,近代日本の教育が手っ取り早く官僚と技術者を作るために作り出したものである.官僚は,数学に時間を使う必要はない,技術者は歴史や古典は知らなくてもよい,というわけである.
 私は高校時代,数学も哲学もおもしろかった.また大学生になったころは道元の『正法眼蔵』を,分からないままに,いつも持ち歩いて読んでいた.それで結局大学院を中退し,高校教員からはじめていろいろなことをやり,青空学園で考えて,そして『神道新論』などを表した.これは,理系文系という近代日本の底の浅い枠組を自力で乗りこえるということでもあった.道はもとより途上であるが,それは確かだ.

 写真は,奄美の海でひろってきた珊瑚のかけらを水瓶においたところ.写っている青色は空の色.そして,2008年に沖縄に連れってもらときに買った素焼きのキジムナーと,それをおいたガジュマル.二鉢ある.ガジュマルは近くの店で一つの小さい鉢植を買ったのだが,大きくなり株分けしたのだ.もう一つ分けたのがあったのだが,外に置いたままにしたとき霜にあたって枯れた.ガジュマルは霜には弱い.以来,鉢に植えて真冬は家の中に入れている.奄美から戻って以来,ようやくに夏空が続いている.

奄美大島まで

 この時期は夏真っ盛りのときであるが,今年の夏はどうか.関西では夏空は見えず,曇りか雨の日が多かった.ようやく今日あたり,夏空がでそうである。それでもやはり気候が変わってきている.
 先週は23日火曜日から26日金曜日まで奄美大島三泊四日の旅をしてきた.日常に戻っても,亜熱帯の島の感覚は残り,日々が少し違う感じになっている.島では,トカゲかカナヘビか分からないが,こちらにはいないものも見た.わかる方いれば教えてほしい.
 奄美大島は次男一家が連れて行ってくれた.孫とあわせて六人の小旅行であった.伊丹から奄美空港まで一時間半でゆけるのだ.そこから車で二十分ほどの奄美大島北の方の龍郷町芦徳にある宿舎に泊まって,車であちこちまわった.
 五年前には西表島に連れて行ってもらった.それ以来である.もう五年経ったのだとも思うが,そのうちの三年,彼らはドイツにいたのだし,こちらが四回ドイツを訪ねたのだ.ちょうどその時期,こちらは雑誌への寄稿とそれをまとめた自著の出版もした.また孫もふえた.その前の年,2013年の秋には器質化肺炎で五週間入院した.死ぬ気はしなかったが,それでも大病であった.そのような五、六年をふり返ることにもなった.
 奄美大島は亜熱帯の気候であるが,沖縄とも違い,また鹿児島とも違う風土である.そして、部外者の私にその意味は言えることではないが、いろんなところで琉球と日本に挟まれた複雑な歴史の跡を見た.日頃とは異なる時間の中に身をおいて,いろいろなことを思い考える時間がもてた.二五日には南端の古仁屋の港までいって,船で海中の魚や珊瑚を見るのもした.大島紬の老眼鏡入れを買った.これはたいそう気に入っている.

 途中,名瀬の町で昼を食べたが,山本太郎の選挙ポスターがあちこちにあった.ガイドの本で見つけて行った泥染めの店にも,山本太郎の写真の入ったパンフが置いてあった.
 山本太郎の選挙ポスターはわが家の塀の壁にも貼っていたのだが,その山本太郎となかまたち,今回の参院選で大きな勝利であった.二人の障害者が代議士となった.
 昔の市芦教員時代の同僚で奄美大島出身の人に,奄美にいってきたことをメールしたら,返信で奄美の故郷のことを書いた後に,「今回の選挙は面白かった。車いすの国会議員が二人選ばれたのでここから出発です。みんなで新しい政治を作っていけるかもしれません。」とあった.一緒に障害者解放教育に取り組んだ仲なので,彼が山本太郎に期待する気持ちはよくわかる.

 左派を自認する人々のなかでは、いわゆるポピュリズムへの違和感、「れいわ」という党名への反発などがあって、賛同よりも警戒感が表明されている.左派の源流ともいうべきロシア革命の前から続く左翼は,資本主義にまだ拡大の余地があった時代にどのような方向で経済を拡大するのかをめぐり,資本家階級とは異なる立場と方向を体現するものであった.
 しかし、もはや資本主義そのものに拡大の余地がなくなったいま,もういちど立ちかえるべきは「人」なのである.人はいること自体に尊厳がある.このことをかつての同僚ともいっしょに活動した,解放教育運動のなかで学んだ.

 奄美から戻ってきた翌日の昨夜の第四土曜日は定例の梅田解放区の日であった.いつもより一つ後の電車になったが,何とかはじまるころに行くことができた.もう横断幕はでていた.そして,端の人と交代していつものように横断幕をもってきた.
 この日は,京都から,米軍xバンドレーダー基地反対・京都連絡会の運動をやっている人も来て,ギターで歌いながら,京都にただ一つある米軍基地のことを訴えた.毎週,辺野古基地に反対する街宣を梅田でやっている人も,そちらが終わってからこちらに来て,みなをリードして声をあげていてくれた.誰でもここに来て話そうという呼びかけは,少しずつ輪が広がっている.

  経済から人の時代への転換の歴史がはじまり,それを体現する政治勢力の出現は歴史の要求である.「左右ではなく上下」というのも,経済ではなく人,ということである.山本太郎となかまたちの活動は、人が人として存在することの意味を問うた.ここに共感が広がった土台がある.それは確認する.そのうえで,これがどのように動いてゆくかは,すべてこれからの問題である.
 資本主義の終焉の中で次の時代をどのようにひらいてゆくのかという普遍的問題と,非西洋で最初に近代化した日本のその近代のなれの果てとしてのアベ政治をどう乗りこえるのかという固有の問題と,それが合わさり重なり動いてゆく.街頭にも立ち,それを見とどけ,せめてこの時代を書き記してはおきたい.
 奄美から帰って昨日の昼は仕事の整理もした.問題づくりの原稿の改訂などの締め切りの一覧も作った.それをこなしながら,日々の営みに戻ってゆこう.ときどきあの風土の感覚がふっとよみがえる.奄美での時間の中で,自分はほんとうに小さなものだと思った.いろいろなことをしなければならないとやってきたつもりではあるが、あの自然風土の中に身をおいて思えば、それは小さなことであった.それがつくづくわかって,よかった.これからの自分のふりかえりのために,この間の思いを書いておいた次第である.

夏の数日

 この数日,仕事ではないことごとでいくつか出かけてきた.

 木曜日十一日の夜は梅田まで行って,山本太郎の街頭演説を聴いてきた.山本太郎の活動は議会選挙の運動として新しい.参院選に十人の候補を立てた.参院選公示後の街頭演説を沖縄からはじめて東に進み大阪に来たのだ.ヨドバシカメラの向かい側大阪駅前には多くの人が集まっていた.この場所にこれだけの人が集まるのは,戦争法に反対する集会の二〇一五年の秋や二〇一六年五月のの憲法集会以来である.二〇一五年秋のことは「やつらを通すな」にある.あのとき,結局やつらは通り,そのアベ政治はいまもって続いている.
 山本太郎は自分の言葉で語る.新自由主義がいきわたり人の価値が生産性ではかられる今のあり方を変えよう,人のいのちを大切にする世に変えてゆこうと呼びかける.そして,消費税廃止と累進課税の強化を軸として,奨学金返済免除などを含む政策を語る.立候補した十人立候補した十人の言葉はいろいろなところで聞けるが,みな自分の言葉で語っている.それが聞くものの心を打つ.芸人だから話がうまいという人がいるが,それはちがう.彼らは自分の言葉で喋っている.
 今回の参院選ではもう一人、労働者の使い捨てを許さない! と全国を駆け回る大椿ゆうこの話も人の心をつかむ.これらの人たちが表に出てきたのは時代の要請、歴史の要求だ.それに応えた彼らの周りでは多くの人が動いている.

 そして土曜の十三日は定例の梅田解放区の日.この日も雨交じりでガードの下に移動する.道の向こうの五十メートルほど離れたところで,大阪維新の会が街宣をはじめる.参院選候補も街宣車でやってきて手を振っている.スピーカの音量はこちらが圧倒的に大きい.維新政治とは,カジノであり万博誘致であり水道民営化であり,大阪を民間企業に売りわたすものだ.維新の吉村知事は慰安婦像のことでサンフランシスコとの友好都市を解消した.丸山穂高衆議院議員や長谷川豊候補は維新そのものである.これを語る.維新の用心棒らしきものが来て偵察したりしていたが,そのうち維新は退散した.

 もう近代主義左翼はこの時代の要請にこたえることはできない.近代主義とは近代資本主義が作りだした世界観であり,日本においては明治以降の思想潮流,その枠組の中の左派、私はそれを根なし草左翼というが,もはやそれは歴史の遺物でしかない.人の原理に立脚し,資本主義の現在を打つ破ってゆく思想と運動,それが歴史をつくる.
 もとよりアベ政治が牛耳る今回の選挙の結果はわからない.また,選挙だけで世が変わるわけではない.しかし,ここで生まれた人の動きは次につながる.このようなことを通して新しい人のつながりが生まれ、選挙も一つと方法として、世を動かす力を蓄えてゆく.量の蓄積が質を変える.一人一人が自分の居場所から時代の要請に向きあい,そして街頭に出て語る,これを続けてゆきたいし,こちらもできるところまで手伝うつもりである.

 日曜日の十四日は私にとって年にいちどの京都相国寺僧堂での座禅の日である.在家居士の参禅会である智勝会のOB会があった.阪急烏丸四条で降りて四条通りに上がる.祇園祭も近く,山鉾が並んでいる.この季節の京都は,体が覚えているという感じで懐かしい.平安時代に鎮魂の祭りとしてはじまった祇園会,千年の歴史である.相国寺で再び座禅をするようになった経過などはくりかえさないが,一昨年のことは「今年も相国僧堂」に書いた.昨年は「宵山の日の参禅」に書いたように天気もよかった.今年は雨がちであった.
 この日少し早めにゆくと,ちょうど鐘楼の下にある横椅子に座っていた二人のうち一人が,拙著『神道新論』を読んだと声をかけてくれた.私より九歳年上の医者である.いろいろ意見も聞かせてもらった.今の日本への危機意識ものべられた.それで「分水嶺にある近代日本」の載っている雑誌も送ることにした.それぞれの考えは尊重して,明治以来の日本近代について,考えるところを出しあい対話したい.拙著の後書きに,「いろんな人と対話ができればと思う。大きく世が動いてゆく時代にこそ、言葉を大切にして語りあう文化の根づくことを願っている。」と書いた.その思いはいよいよ大きくなっている.
 そして相国寺専門道場のある大通院に入った.ここは観光客は入れない.二時に相国僧堂書院の広間に集合.それから読経の間に移動し雲水さんの木魚にあわせてみなで読経をおこなう.それから僧堂に入り,座禅を二柱(線香一本が一柱で二十分ほど)おこなう.そして老師の臨済録をもとにした提唱.それからまた広間に戻りみなで薬石,つまり精進料理をいただきながらの交流会と時間を過ごしてきた.この日は先日亡くなられた 上田 閑照 先生の供養も兼ねたOB会となった.相国僧堂での在家居士の座禅は近くは西田幾多郎の弟子の西谷啓治先生以来であるが,古くは室町時代からあるのではないかと思う.京都での長い伝統の営みである.
 座禅会の散会のあと,Sさんと小雨の中を相国寺境内から同志社大学の横を通って歩いた.二〇一四年の秋にSさんの案内で永観堂などをまわった.そのときの記録がここにある.もうあれから五年がたつのだ.また今年の秋においでよと言ってくれた.そして地下鉄の今出川駅まで戻った.京都の街のなか,同志社大学の横にこのようにおちついた場所がある.写真は相国寺法堂である.

 これが私の今の時代のなかでの週末から日曜であった.こういう時間を過ごして,いったい自分は何をやってきたのだろうと考える.『神道新論』は一つのことを書き置いたとは言えるが,それはまだまだ小さなことである.非西洋で最初に近代化した日本の経験をほんとうに振り返れているかといえば,まだ緒についたばかりである.
 でも人はこうして,何らかの道をたどり歩むのだとも思う.まさに「大きな歴史のなかの小さな歴史」のなかの数日であった.僧堂と再会したのは福島の地震の後であり,『神道新論』を公にしたのはさらにその後,あの大病の後であることを思えば,ほんとうに感慨深い.

励まされて

 この年になると小さなことでもいろいろ励まされる.

 昨日四日は私の七二歳の誕生日.この日を覚えていてくれた自治会の副会長が誕生祝いにと朝方日本酒をもってきてくれた.そしてその日の午後,大津に住む妹からお中元をかねて近江の地酒を贈ってきてくれた.「体に気をつけてまだまだご活躍ください。」とのこと.それぞれにありがたい.
 七月四日はアメリカ独立記念日.昔はそれと同じ日であることがなんとなく自慢であった.いま思うことは,アメリカの人々に独立のときのこころざしを取りもどしてもらいたいということである.しかしそう言うと,ただちにそれは日本自身の問題に返ってくる.明治維新に生涯を捧げた国学の徒の思いを,近代日本は裏切った.それが『神道新論』の導入となる第一章であった.

 今日は朝,次のメールがきていた.

 Kと申します。和算の勉強中、御サイトの書庫「幾何分野」の「デカルトの円定理と一般化」や「パップスの定理」などにたどり着き混迷の中から抜け出すことができました。
 有益かつ貴重な資料を惜しげもなくご提供くださり心より感謝しております。有難うございました。      二〇一九年七月五日

 このようなメールにはほんとうに励まされる.ありがたい.青空学園もこの夏で二〇年になる.数学科ではA4版のPDFで3200枚になるものを,HTMLで公開し,PDFも自由にとれるようにしてきた.数学が少しでも根づくようにと願って無償で公開してきた.これは私の信条にもとづくものである.教科書風の数学書は多くある.しかし,高校から大学範囲の数学を,学問としての立場からそれなりに探究し書き表したものはほとんどない.そのような試みの跡を残しておこうと,これをやってきた.
 こちらの意図に合致した感謝のメールは,やってきたことが無駄でないことの証しであり,逆にこちらが感謝する次第である.
 青空学園数学科の訪問者数は普通一日で120ほど増える.昨日からは260増えている.それだけの人がここに来て,何かを考えている.その事実から,逆にまた責任も大きいことを思う.こんな話題で書いてみてほしいなどあれば,意見を寄せてもらいたい.

 そしてもう一つ励まされるのは山本太郎とその仲間たちの崛起である.彼ら10人の言葉は,これまでこのように表に出ることはなかった.この参議院選,そして次の衆議院選をつづくなら,新しい段階を拓くのではないか.「分水嶺にある近代日本」を今年の初めに書いたが,こちらの方向が現実化するとはなかなか思えなかった.これについては,書きつづけたいが,大いに励まされている.
 写真は火曜日に京都で食べたハモの天ぷら.京都の夏である.

梅雨はどこへ

 梅雨の時節のはずなのに,雨が降らない.降るときは夕立のような通り雨である.土曜日は定例の梅田解放区であったが,パラパラとし始めたのでガード下に移動.すると,猛烈な雨となり,しかし七時半頃はもう上がっていた.やはり気候は変動していることはまちがいない.このような気候変動は,この地球では何度も何度もあったのだろう.
 その梅田解放区,こうしてやっていると時代を反映していろんな人がやってくる.一昨日は,手拭いを頭に巻いた1人の青年が立ち止まり,話しかける.彼もいろいろ今の政治に言いたいことがあるようだった.それでマイクを手にして話していった.また,鳥取だったか遠くからきた青年も,ネットで見たと,この梅田解放区を知っていて,マイクで話していった.二人とも今の政治に怒りをもっている.そのことをはなしていた.

 昨日の日曜日は,G20に反対するデモなどが大阪であった.これは学生中心.大阪にいきたかったのだが,仕事が混んでいて,地元の,アスベスト飛散に対する取り組みを進める人たちの「西宮こしき岩アスベスト裁判」報告集会に顔を出してきた.皆さんの旧夙川学院短大の解体におけるアスベスト飛散訴訟があったから,私の地元での夙川学院中学高校校舎解体工事は,業者とも話しあいをすすめ,工事協定書も結んで,いちおう飛散させることなく解体工事は終わった.
 これらのことから,私もいろいろアスベストの問題を知ったのだが,それで思い起こされるのは,阪神淡路大震災のときのことだ.崩壊したビルの合間を歩いていた.みな多量のアスベストが飛散するなかを歩いたのだ.崩壊した建物の撤去作業も何も防塵せずになされていた.あれから20年以上経ち,あのとき吸い込んだアスベストを原因とする病変が現実化するときになっている.

 今は週に3回夜授業をし,自宅で問題づくりに取り組んでいる.三系統の問題を作っている.問題を作り始めると,寝が浅くなる.いろいろな考えが寝ているときにうかぶのだ.それがいつもいい材料になる.起きているとき思いつけばいいのだが,起きているときというのは,分かっていることを点検しながら書いてゆくときで,新しいことを思いつくのはいつも明け方か,犬と散歩しているときなんかなのだ.
 あまり根をつめるとよくない.六年前は結局夏の疲れも重なって秋になって肺がやられ,五週間入院した.今も肺に傷は残っている.ただあのときと違うのは,今は薬を何も飲んでいないことだ.あの入院の前はすぐ漢方の風邪薬を飲んだ入りしていた.退院から一年かけてステロイドを減らし,治癒したときから以降この五年,薬はやめた.いちど食べ過ぎて消化補助剤を飲んだだけだ.
 この数日咳が出ている.咳が出れば漢方薬,が昔の自分だった.いまは,節蓮根の粉末を湯にといて飲む.普通は数日でなおる.それでも六年分の年齢が加算されているから気をつけなければならない.いずれにせよ,人に迷惑はかけたくないという気持ちである.

 いろいろ考えることがあるのだが,少しずつ書きたしてゆこう.

季節の味わい

 週に一度,京都まで行く.そのあと,烏丸塩小路東角の行きつけの店にゆく.私のまさにささやかな楽しみであり贅沢である.もうこの店にいきはじめて二十年以上になるのではないか.前の店長の手ずくり一品が気に入って,行くようになった.どこも人手不足で,この店長,引退したのにまた店を手伝っておられる.
 二週間前,この人が日本海までいって釣ってきたというグレの焼きものである.この人はもともと富山の人.車で日本海まで釣りに行き,いいものが釣れると店に出す.私とほぼ同じ年なのに車で日本海まで,元気である.グレの塩焼きに少し酢の入ったダシをかけていただく.これと京都の地酒を冷やで飲む.酒と肴は風土と切り離せない.若狭のグレは昔から若狭街道を通って京都に来ていたのではないか.
 先週は,アユの塩焼き.こちらで釣れたのを仕入れたといっておられた.アユは故郷の宇治川のものが好きだった.アユは「釣る」といわない.宇治では「アユかけ」と言っていた.おとりをつけて川にいれ,引っかけてとらえるのだ.播州揖保川のアユをもらったこともある.揖保川のアユのはらわたで作ったこのわたが今も冷蔵庫にある.この塩辛も好物で,耳かき一杯で1合の酒が飲めるというものである.
  そして先日はハモの湯引き.京都の夏はこのハモの湯引きである.これを梅を練ったものにつけて食べる.酒は独りで飲むべきもの.この店で黙って一献,である.来年は京都に行くかどうかわからないので,写真に撮っておいて,それを見ながら一杯やるために,撮している.

 若狭の魚といい,琵琶湖の鮒寿司といい,宇治川のアユといい,高浜や大飯や美浜の原発が崩壊すれば,みな食べられなくなる.福島ではそれが現実化した.いつもそのことを思う.そこから,今の世のあり方を思う.もう手遅れかも知れない様相である.ゆくところまで行かざるを得ないのか.そうしないとこの近代日本は変われないのか.そんなことも考え,店を後にする.