ほぼ治癒

 残暑お見舞い申し上げます.
 今日は5週間ぶりの診断日.ステロイドを飲むのを止めて5週間.再発はしていないか.それを気にかけながら,採血しレントゲンを撮って,それから病院食堂で朝食.待って診断をうける.Eosの値も下がって好酸球肺炎の疑いもなくなり,その他の数値もほぼ正常.肺もきれい.
 「では治癒ですか.」「うーん…,二ヶ月後にもういちど来てくれますか.それでレントゲンが異常なければ治癒です.」ステロイドを止めて1/3が再発するといわれているので,先生も慎重である.分かりました,ということで「治癒」の判断は持ち越したが,ほぼ治癒である.もっともこれは私の判断にすぎない.ここで油断してはならないことはわかっている.いろいろ皆さまにはご心配もかけ,また励ましていただきましたが,今日のところの経過はこのようになりました.
 写真右は,自宅の入り口の所に2週間ほど前からあるセミの抜け殻.ここで孵っていったとは,長い土の中の時代をどこで過ごしたのだろう.このセミにとって地上ではたった一度のこの夏,どのよう夏になったのだろうか.
 16日に盆の墓参りに故郷の宇治に帰省した.実家でもういちど母親の経過を確認して驚いた.母も26年前,私と同じ66歳の秋に入院.そして秋の終わりに退院.年を越し正月は迎えたが,しかし3月に肺に転移しているのが現れ,4月の下旬に再入院.そのまま67歳で生涯を終えた.
 私と同じ歳に同じ経過をたどり,母は逝き,私はほぼ治癒となった.どちらになるかはほんの偶然の違いという気がする.あの頃,教員を辞めて後の数年,母にも気苦労をかけた.それが病気の進行を速めたことはまちがいない.それを思うと本当に今は手をあわせるしかない.それでも私がほぼ治癒になったことは,もし報告できれば「まあ,気いつけや」といって,喜んでくれるとは思う.
 今は少しゆっくりと考えたい.生き延びたのなら,その命をどう生きるのか.やりっ放しのことは多く,それを一つ一つ片づけるのも,なさねばならない.同時に,自分が作ってきた場,自分のはたらく里としての青空学園,ここでいったい何ができるのか.こういうことも考える.一人一人のいろいろな力は個人の私有物ではなく,みなの中に環流してゆくべきものであるという持論に立てば,生かされた命をどのように生きるのか,じっくり考えねばならない.
 写真左は両親や一族の眠る宇治は善法の墓地にある山本宣治の墓.16日に撮す.昭和四年三月創建の銘のある宣治の実家・花屋敷の墓である.彼は日本軍国主義に対して闘いぬいた人であった.「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから…」という有名な演説は,治安維持法改悪反対の演説草稿を準備している最中のものであった.そして,ついに国会で発言できぬまま,1929年3月5日,軍国主義者の手先によって暗殺される.この墓の背後にはこの言葉が刻まれている.戦前それは塗り固められて読めなかった.詳しくはここなどを
 私にとって,故郷宇治のこの墓地は父母の眠る所であり,同時に山宣の眠るところでもある.そして現在の安倍政治はあの山宣の頃と同じところに向かっている.当時の治安維持法改悪と現在の秘密法と集団的自衛権問題は平行である.しかしこの先,同じことをくりかえすわけにはいかないとつくづくと思う.