大学祭は何を訴えるのか

 今年も11/21〜11/24と京大11月祭があった.大学学園祭である.塾で教えた人が実行委員会をやっていて頼まれたのでパンフレットに「青空学園数学科」の名刺広告を出した.彼らの資金集めへの協力である.それでパンフレットを一部もらったのだがあまりよく読んでいなかった.知人から「読んでみろ」と教えられたので書棚から出して読んでみた.
 その統一テーマが「単位より大切ななにかを求めて」なのだ.これには驚いた.何でこれがテーマなのだ.中学の文化祭でももっと意味のあることをいうだろう.単位より大切なことを求めるのが大学だ.そんなこと当たり前ではないか.大学に入るのはもともとそのためではなかったのか.もちろん単位は取ればよい.落とさない方がいい.しかしそれは目的ではない.目的は「大切ななにかを求め」ることだ.それがテーマになるということは「大切ななにかを求め」ることなく学生生活を送っている人が大半だということだ.
 学園祭の統一テーマとは,京大生から社会へのメッセージであるべきだ.「単位より大切ななにかを求めて」はあまりにも内向きだ.メッセージ性はまったくない.若者は少々現実離れしていても大きな見通しで時代の先を見て夢を語る資格がある.それが特権だ.ところが「単位より大切な」だ.あまりに情けない.
 いま手元に『フランスジュネスの反乱』(大月書店)がある.副題に「主張し行動する若者たち」とあるようにこの数年のフランスの青年の行動を追った報告書だ.フランスの若者の置かれた状況と,それに対する生き方を読んで感動した.今も高校生の行動は続いている.またギリシアの学生が政治の腐敗と就職難に怒っている.この6月にはお隣韓国の高校生,大学生がろうそくを掲げて街頭を埋めつくした.この記憶も新しい.
 このような世界の若者の動きは学園祭実行委員にはまったく見えなかったのだろうか.それとも人ごととしか思えなかったのだろうか.日本の大学生の精神年齢はほんとに幼いままである.今年は京大学園祭50年だったそうである.50年経ってこうなったしまったのか,と思う.50年を期に反転し,社会に目を向けそのなかで自分人生を考える新たな方向に進んでいくことを望みたい.しかしあまりここには期待できないのかも知れない.