今年も相国僧堂

 一昨日は,私にとって数年来の恒例となった京都相国僧堂での座禅会であった.午後二時から六時過ぎまでを寺で過ごしてきた.読経.僧堂での座禅.座禅は線香一柱が燃える間を単位とするがこれが約二〇分.それを二柱.そして老師の臨済録をもとにした提唱.その後また堂の部屋に戻り,精進料理の会席,という次第であった.今年も,九十一歳になられた上田閑照先生が参加してくだされた.半世紀前,上田先生のご自宅で学習会をしたことも思い起こされる.
 再びここで座禅をすることになったときのことは,「相国寺僧堂」に書いた.これから毎年参加してきた.2013年7月13日:夏の京都の一日2014年7月13日:京都の夏2015年7月11日:夏のはじめの金曜行動2016年7月10日:京都相国寺.もう今年は六回目である。半世紀前の学生時代に,在家居士の会である智勝会に参加し,それからそれぞれの人生を歩んできたものが,OB会として集まり,再びこうして坐る.不思議なことであり,これは私にとって,欠かすことのできない,一年の柱のような時間となってきている.
 これまでは土曜日に行ってきたが,今年からは日曜日となった.これまでは,御所の近くの食堂で昼食をとって,相国寺の南側にある同志社大学の学生食堂で飲み物をとり汗をひかせ,それから相国寺に向かっていたのであるが,そのつもりで行くと,日曜日で学生食堂は閉まっていた.代わりに,新島襄の記念館が開いていたので,少し時間を使ってそこを見学し,体を冷やし落ち着いてから寺にいった.
 京都の街の真ん中で,時代によっていろいろと形を変えても,在家居士の参禅は,室町時代から連綿と続いてきただろう.僧堂に会して坐を組む.一人一人にとって,それぞれの人生をふまえて座禅への思いや,その時の心のあり方はちがうだろう.しかしこのような,まさに一つの場が続いてきたことの意味は,大きく深い.
かつて,半世紀前,私が師事していた止々庵梶谷宗忍老師は,智勝会の会報に,次のような漢詩を示されていた.

光陰易過學難成  螢雪惟期他日譽
紛糾世情莫運頭  研鑽一路驀然去

 私は当時これを深く読んでいたとは言いがたい.一九六八年,大学が全学ストライキに入った頃,老師に何の挨拶もせず,寺を離れたのだった.一九九五年に,老師が亡くなられたことをそのときの新聞記事で知って,今生ではもう相国寺で座禅はできないだろうと思ってきた.ところが,私の一文「不安と求道」を,OB会に参加していた人が目に止めて幹事に知らせ,幹事のMさんが手紙をくれ京都駅のところで再開した.こうしてまた相国寺で座禅ができるようになった.このめぐりあわせはまったく不思議であり,場を結ぶもののことを思わずにはいられない.「青空学園」をやっておいてよかった.
 昨日十日月曜日は,朝から締め切りの近づいた問題作成原稿に手を入れ,午後は副会長と市役所まわり,それから神戸に出て夜は授業と,時間がとれず,今朝ようやくこれを書いた次第である.
 それにしても,京都は私にとって不思議な,体の一部のような感じを持つ街である.街におりたったときの感覚が,他の街にいるときとまったく違う.先週七月六日には,京都市南区吉祥院にある吉祥院天満宮に参った.ここは母の実家のあったところと鉄道を挟んだ南側にあり,なんとも懐かしい.二〇一三年六月に初めて参った.吉祥院天満宮のことは2013年6月27日:吉祥院天満宮2013年8月25日:吉祥院六斎2015年5月26日:人間と土地,そして螢などに書いてきた.京都の街は,母の故郷の地であることと,そして学生時代を生活した地である.京都のそれぞれの地域,街の路地,周りの山の光景.すべてが懐かしい.こう書いていて,鹿ヶ谷の坂道で,そこの風景をスケッチしていたときのことを思い出した.あのころ,それからの生き方に迷っていた.半世紀前のことである.
 この街のそれぞれの営みは,かならず守り後世に伝えなければならないとつくづく思う.同時に,それが出来ず現代において断絶するところの少ないことを思う.写真は,相国寺南門,境内の本堂への道,鐘楼.そして吉祥院天満宮の境内にある地蔵堂
 追伸:7月20日.昔『月刊たいまつ』の読者会などを一緒にやっていたNさんが昨日の朝亡くなった.Uさんが先程知らせてくれた.Nさんは定時制の法学部を出て司法関係の仕事をしながら,途中で得度し真言宗の僧侶として,地元でその活動もしていた.2年前に脳内出血を起こし,それ以降意識は戻らなかったそうである.私が退院した直後となる3年半前の賀状に入院していたことを書いたら,直ぐに電話をくれた.あれが久々に声を聞いた,そして最後の会話となった.最近も一度会いたいなとも思ったばかりである.こちらは明後日から旅行で,明日は地元の会議が二つあり,葬儀にはいけないが,Uさんが出てくれるのでよろしくと言伝てした.合掌.