夏のドイツ

1661年

 7月22日の朝伊丹をたって,8月3日の朝伊丹に戻る行程でドイツにいた.フランクフルトの北30Kmにあるヘッセン州の街,バートナウハイムの,シュプルーデルホーフの泉からあるいて5分ほどのところに逗留し,途中4日ほどミュンヘンに滞在してきた.
昨年のことは「ドイツ滞在上」,「ドイツ滞在下」,「ドイツまで」に書いた.
 この夏の時期でも気温は18°ほどで,今年は曇りの日が多かった.バートナウハイムは落ちついた温泉のでる街である.池のある緑の深い公園が街なみと一体にあり(左上写真),その公園の中には温泉療法のための吸引棟(右下写真)なども残っている.昨年入ったが,木組みの大きな通路に,温泉水が蒸気になってそそいでいるなかを通り抜けるのだ.
 またバーナウハイムの旧市街も一部現存している.かつては旧市街を取り巻く石の壁が,丘の麓にあったが今は一部のみ残っている.そこには今も木造の家や街なみが残っている.そのなかには写真のようにロシア教会もある(左写真).上右の写真はバートナウハイムの旧市街にある建物であるが,上の窓のその上に「ANNO DOMINI 1661」とある.その界隈を散策すると落ち着く.
 このように建築された年代を書いた古い建物が,ドイツの街には多い.日本とドイツの文化に違いを感じるが,石の文化の永続性にはいつも考えさせらる.
ドイツは,日本のように山と平地にわかれるのではなく,南のアルプスを除くと他はなだらかな丘陵の平原が広がっている所なので,街もゆったりしている.このようなドイツの各地方の都市は,18世紀,19世紀に作られていった.
 ということは,西洋による植民地支配とそこからの収奪からもたらされる富が,このような自然条件のもとで,これらの街々を作っていったと言える.そして今,かつての植民地や奴隷貿易のあった地域からの移住者や難民が,このヨーロッパにやってくる.2015年には西洋世界の難民問題が大きく表に現れた.
 これは,八百年におよぶ西洋の非西洋に対する収奪の結果として社会的な基盤が崩れた地域からの,生きるための大移動であり,かつてのゲルマン民族大移動と同様,旧世界を大きく揺り動かしている.
 こうして,ドイツの街々は,アラブ系の人,アフリカ系の人,そしてわれわれアジア系の人間が,白人と混じって生活している.社会を支える下積みの仕事はほとんど移民が引きうける.日本と同じく,いわゆる格差は広がっている.故郷で生活できなくなって移って来た人らが,やはり苦しい.
 昨年はライン川の古城に行ったが,いちど南ドイツにも行きたかったので今年はバイエルン州ミュンヘンを訪れた.ミュンヘンは,ドイツで3番目に大きな街だが,しかし広大な緑の公園もあり,街そのものはゆったりしている.この地方は大雨も多く,この間も雨の日が多かった.河の水も茶色で水量も多かったが,あちこち歩いた.
 街の中心部にはマリエン広場(右下)がある.ミュンヘンの新旧の市庁舎はマリエン広場の周りにあり,古い建物に囲まれた商店街も広がっている.ミュンヘンの公園で見かけたナメクジ.雨がやんだときの乾燥に耐えるためだろうか外革が厚い.温暖湿潤の日本のナメクジはこのあたりでは生きられないかもしれない.
 毎日,少しではあるが肉料理を食べワインを飲んでいた.酒は風土と深く結びついている.偏西風の吹く乾いた風土と肉料理に合うのがワインである.温暖湿潤な空気のなかで刺し身が合うのが日本酒である.ドイツは白ワインであるが,じゃがいもで作った焼酎のような酒もある.それも少し味わった.
 この間,こちらは,これまで雑誌に寄稿したりしたのを再構成してまとめようとする構想などが行きの飛行機の十時間から,頭から離れず,毎日,気分転換しながら,夜や早朝にいろいろ考える.これは去年もそうだったが,日本にいる日常と少し異なる生活をすることで,いろいろ考えも涌いてくる.帰りの飛行機の中でそれらを入力したのも去年と同じであった.
 日本に戻って,これから,自分の書斎でこれらをまとめてゆこうと思う.数学の問題づくりなどの仕事もたくさんあるし,地域の課題ですることもいろいろある.一時その日常から離れてみることも大切だ.彼らも一年以内には日本に戻りそうなので,もういちど行けるか,というところである.
 時代の流れ,時の移りを,異なる空間で味わうことは,得難い経験であった.こうして日記に書いておけば,その時間のことを思い起こす手助けになる.そのつもりで書いておいた次第である.