マレーシアの経験

nankai2009-07-14

 あるネット記事で「英語で教えるのは限界…マレーシア 理数学力まで崩壊」というのに出会った.

 多民族国家マレーシアの小中学校で行われてきた英語による理科と数学の授業が2012年以降,マレー語や中国語,タミル語の各言語での授業に戻されることになった.生徒が授業を理解できず,理数科ばかりか他の教科でも学力が低下したためだ.英語力向上で国際的に活躍できる人材を育成するため,マハティール・モハマド元首相(83)が導入した制度だが,十分な準備がないまま始めた結果,6年で廃止に追い込まれた.

 これは他山の石である.この制度を導入するとき,当時のマハティール首相は「科学や数学はマレーシアが起源ではない.専門用語はマレー語にはなく,英語から移植するしかない.それなら最初から英語で学ぶほうがよい」といったと書かれている.しかしこの考えは,科学分野の単語の移植と,考える言葉そのものを英語にしようということの本質的な違いを理解していない.また単語を「移植」することの重要さも理解していない.個々の単語もまた全体のなかに位置づけられるように,訳し直さなければならない.
 このマレーシアの経験は,東洋諸国にとって人ごとではない.十分その経験に学ばなければならない.日本でも小学校で英語教育とか,授業を英語でするとかやろうとしているが,文部官僚の浅はかな発想である.人間はいかに外国語を勉強しても母語で考えられるところまでしか考えることはできない.まず母語である日本語の力をつけなければ,想像力や批判力,そして説得力などは育たない.
 私はかつて,日本語のわからない在日一世の朝鮮人のお祖母さんに主に育てられた在日三世の生徒を担任したことがあるが,日本語も朝鮮語もそれぞれ中途半端になり,考える力がはじめ弱かった.高校三年間を通して力をつけたが,その間のその生徒の苦労を知っている.母語がしっかり身につかないと,それを取りかえす苦労は大変なのだ.最近の高校生は,また違う社会的な原因があるように思われるが,数学はよくできるのに日本語がだめという生徒が増えてきた.こんな状況下で英語の授業なんかをすると,結果はやる前から見えている.
 非西洋語の大学で医学教育を母語でやっているのは日本くらいなものではないか.『解体新書』以来の長い伝統である.益川先生のように日本語で考えてノーベル賞までいくというのも,大学教育を日本語でやってきたからだ.これは江戸期から明治時代に外国の文物の言葉を日本語に移植した先人の苦労のたまものだ.この苦労は引き継がなければならない.もちろん明治期に急いで移植して今もってこなれていない言葉はたくさんある.それはこれからの課題なのだが,とにかく母語ですべてやろうという意気込みは受け継がなければならない.
 ところが最近知ったのだが,「スーパーサイエンスハイスクール」というのがあるそうだ.文部科学省が科学技術や理科・数学教育を重点的に行う高校を指定する制度のことである.SSHと略記される.平成14年度に構造改革特別要求として約7億円の予算が配分され,開始された.またここでも文部官僚の浅知恵である.一体これは何をする学校なのだろう.まったくわからない.「スーパーサイエンス」とはどんな科学をいうのだろう.科学を超えた超科学? それとも最先端科学? それを高校でするのか.高校で学ぶべきは科学の基礎だ.それなら「基礎科学高校」というべきだが,別にそういう高校を置く意味がわからない.それにしても和語でなくとも少なくとも漢字で表そうとしてきた明治先人の苦労をなんと思っているのだろう.高校からの批判もあるようだ.
 構造改革というのは要するに小泉改革で,雇用制度を破壊し農村を疲弊させた(その他にもたくさんあるが)例の悪政である.そのなかで学校教育もずいぶん疲弊した.小泉首相靖国神社の参拝などをくりかえし民族派の顔をしてきたが,やったことは教育や農業,地方の疲弊であり,国民の金融資産の切り売りである.さて,衆議院選挙である.日本でもマレーシアでも,新自由主義(=日本では小泉改革)の見直しがすすんでいくのだ.今はそういう段階であり,これは自民党公明党の小手先の手練手管ではどうにもならない.問題はこの変革期を担う力が民主党の側にどれだけあるかである.皆さんも,このあたりを大きく見て,これから秋に向けての一連の動きを自分の将来の問題として考えていってほしい.
 写真は夙川のカワセミ.警戒心が強く近づけない.もっと焦点のあった写真を撮りたいのだが.セミも鳴き始めた.クマゼミアブラゼミの鳴き声が大きくなってきた.夏である.