『東京大学新聞』を読む

nankai2010-03-23

東京大学新聞』というのがある.財団法人東京大学新聞社が発行している.3月3日号は「前期問題解答号」ということで,2010年前期全教科の問題と解答が掲載されている.その一面下段のコラム「排調」の冒頭は次の一文だった.

「くだらない受験勉強を,早く終わらせてあげたいんです」。取材した予備校講師がつぶやいた。効率偏重の暗記学習からおさらばして、大学で学問に打ち込め、という期待だった▼…【ぐ】

皆さんこれをどのように読むだろうか.私は次のような意見である.

  1. 「効率偏重の暗記学習」というが,暗記学習は効率的なのか.「少しの原理をしっかり学んで自由に考える」方がはるかに効率はいい.暗記で問題を解こうとする方が実は効率は悪いのだ.もちろん「自由に考える」といってもやみくもに考えるのではない.系統だてて考えるのだ.その方法が『高校数学の方法』である.方法論をもってその上で自由に考えることが大切で,このような学問態度を受験勉強を通して身につければよい.この予備校講師はいったい何を教えているのだろう.
  2. 「くだらない受験勉強」というが,くだらなくするかそれなりに意味あるものにするかは、その人の問題なのだ.人生何ごとも無駄になることはない.受験というのは,大学進学という進路を選択した生徒にとっては人生で最初に出会う社会の厳しさだ.これを周到な準備をしてのりこえる.この経験は貴重である.その上でなら,もし合格できなくても,得るところは必ずある.困難に臨むときのそういう態度が身につけばそれは財産である.
  3. しかしここにはもっと大きな問題がある.前にも「私の考え,私の願い」の中の「再び数学を教える」に書いたが,「高校での勉強と大学での勉強が断絶している.教育全体を考えるとき,本当にそれでいいのか」ということなのである.本来,入試は大学での勉強に必要な基礎学力において試験をするのではないのか.だから受験勉強は内容においては大学での勉強の準備であり,「おさらばする」ものではないはずだ.それが「おさらばする」ものになっているところに,近代日本の高校・大学教育の根本的な問題が顕れている.そのように考えるべきなのだ.

この小さな記事の中に大きな問題が潜んでいる.それを見ぬいて考えることが学問のはじまりだ.このコラムのような文章を得々と書いては,いけない.写真はカネノナルキの花.新芽に五円玉を入れて茎の間に挟むと木に金が成っているように見えるので,「金のなる木」と呼ばれる.買って15年ほど経って花が咲いた.
追伸:今朝ここまで書いて,塾に行った.『大学への数学』4月号が来ていた.巻頭の言葉は東大名誉教授の藤田宏先生で,表題は「人生の糧となる受験勉強を」だ! 先生は受験勉強を「将来の発展につながる人間形成のための鍛錬の期間として前向きに受けとめることを」願っておられる.そうでなければならない.先の予備校講師がどこの誰かは知らないが,藤田先生の言葉を反芻してほしい.
藤田先生はさらに「教科書の内容を理解するだけでなく,自分で再現できるほどに身につける」ことを言っておられる.これは私が入試分析会で10回とも言ったことだ.また「手で考え,まとめを作る」でも書いてきたことだ.私は,「教科書を完全に自分のものにする.それを,すべての公式と定理が再構成できるかどうかで点検する.これがすべての土台だ」とくりかえしてきた.同じことを考えているひとがいるものだし,それはまたそのことが真理であるということなのだ.10回親と生徒の前で喋った.その反応をふまえて『勉強のすすめ』を書き直すことにした.