現代文明の中核的問題

 人民新聞 第1421号、2011年5月5日付に,「敗戦に匹敵する危機−『原子力立国』日本の終焉か?」と題する,ギヤバン・マコーマツク(オーストラリ国立大学名誉教授、日本研究者)氏の『カウンターパンチ』2011・4・22−24に載った論説が,脇浜義明さんの翻訳で載っている.脇浜さんはかつて市立西宮高校定時制の英語の先生だった.ボクシング部顧問で神戸の震災の後,ボクシング部のことがテレビで放送されたことがあるので覚えている人がいるかも知れない.彼がいろいろ翻訳してくれるのでたいへんありがたい.
 マコーマツク氏は前にもいちど引用した.日本政治を客観的に論じる数少ない人である.「本論は、広島・長崎の核破壊から10年も経たないときに始まり、65年後の福島原発事故で終わって当然の、日本の核時代を総括するものである。」にはじまる一文は,いわゆる日本の旧体制,「代々の官僚、政治、企業、メディアのエリートたち」が牛耳ってきた体制の構造を分析し,最後に次の一文で締めくくる.

 要するに、過去半世紀間の中心的国家政策の転換が求められるのである。これは、現在体験している大災害を現代文明の中核的問題に挑む機会に転化するという戦略的決心で、いわば一種の革命である。これは、国民の集団的決意と参加という圧力がなければできない。この重大な時期に日本がどう動くかによって、世界の動きも変わるだろう。
これは、基本的に政治的課題である。日本の市民社会が、憲法によって保障されている主権を行使して、この国を現在の危機へ追い込んだ無責任な官僚や政治家から国の舵を取り上げることができるかどうかという、基本的な政治的課題である。

 この一文に心を動かされた.まったく,われわれは「現代文明の中核的問題」に直面しているのだ.そうなのだ.だが同時にそれは実に多くのことを意味することを識らねばならない.この間言ってきたように,経済第一の価値観と体制から,いかに次の段階をきり拓くのかという問題であり,資本主義の次にあるべき仮説としての共産主義,新しい人間のつながりと生きる意味の共有,このような人間のあり方を実現する道筋を理念をもって模索すること,等々である.
 私はいま自分がここに書いたことをもっと深め展開しなければならないと思う.あまりにも直感的な表現であり,裏付けと根拠がない.さらにまたそのような途が現実のものとなるために,準備しなければならない言葉がある.『パスカルの定理と幾何学の精神』の最後で,その糸口をやろうとしていたのだけれど,もっと心を集めて仕事をし,時間を無駄にしてはいけない.
 この12年,高校数学の周辺を深めるということでやってきた.最近ほぼやるべきことはやったと思うようになっている.この間,日本の教育はまずい方向へとばかり進んできた.いちどご破算にするような,つまり教育体制への価値観が大きく転換するような時代を迎えるだろう.もうそういうところへ来ているのかも知れない.そのときに,青空学園で考え準備してきたことが本当に意味をもつことを願っている.一人ができることはした.
 射影幾何は個人的にはいよいよ面白くようやくいろいろとわかってき.いま,クラインの『19世紀の数学』(共立出版,1995)のIV章の第1節「純粋射影幾何の体系化」に書かれている内容を『射影幾何学』(共立出版,1957)をもとに図をつけながら整理している.複比を計量に依存しないで定義する,つまり複比を長さという概念から独立に定義することが19世紀後半の一つの目標だった.シュタウトが抽象的に公理から定義された射影幾何において,体が定義されそれによって一般射影座標が可能であることを示したのである.西洋文明がいちばん輝いていた時代だ.
 これをかみ砕いて残しておけばどこかで誰かの役に立つと思う.射影幾何はもう今日ではあまり書物も出ない.幾何はクラインの思想を越えて発展した.射影幾何自体は完成した.しかし,射影幾何は教育的にはおおいに意味のあることであり,『パスカルの定理と幾何学の精神』はやりきる.
 それと併行して,この間暖めやりかけてきた事々を系統的にやっていかなければと,深く思っている.高校数学の周辺という問題意識が,数学そのものをこえてもよい.実際,高校生の学力の崩壊には,数学をこえた要因がある.ここをまずもう少しあきらかにしなければならず,そのうえで一つの方向を明確にしていきたいのだ.人間いつまでも頭が働くわけではない.