祈り

nankai2011-06-20

今朝,七時過ぎに犬を連れていつものように夙川上流を散歩した.宗派はわからないが,壮年の一人の寸胴の僧衣のそれらしい風情のキリスト教の修道士が写真の光景と同じ増水し流れる川をじっと見つめて立っていた.写真そのものは五月末の大雨のときのもだが,ちょうどこの写真の目の位置に立って,見つめるというのでもなく,ただしっかりと見すえてたたずんでいた.奥の方は五,六メートルの滝になっている.顔立ちからは東欧かどこかの人のように見えた.西欧白人ではなかった.後ろ姿を写真に撮させてもらおうかとも思ったが,いささか恐れ多く,こちら頭を下げてそのまま帰ってきた.
昨日から考えている射影幾何のことなどで寝不足でやや興奮状態であったが,その姿を見て一気に頭の中も静まった.この頭の状態を思い起こさせてくれた.祈りは言葉ではない.心を集めて,しかし考えるのではなく,そのままでいるのだ.没入とか放下とか,表現はいろいろだが,おそらく彼はこの流れ落ちる滝のような川面に,心を集めてじっとしていたのだ.日常の細々とした事々,喜びや悲しみ,怒り焦り,それらをそのままに置いて,彼はそのとき存在そのものであった.
はるか東洋の日本で修道士になり,いかほどの時間がたつのだろう.語り尽くせないこともあるだろう.あるいは思いが煮詰まった中で,雨の後の水を集めた川の流れとその声(おと)に,何か悟るところがあったのかも知れない.そして存在そのものの場で祈っていたのだ.乱世にこのように祈る人がこの西宮にいもいて,朝出会ったのだ.
私も昔,六七,八年の頃,京都相国寺の僧堂の老師の門をたたき参禅していた.三回生のころ月曜から土曜まで大学は全学ストライキで講義はなくクラス討論とか等々,日曜日は相国僧堂で参禅という日々が続いていた.それは不思議な緊張した日々であった.その後私は僧堂から離れ,再び参禅することはなかった.だが,仏道修行は生涯の宿題のまま残されている.老師ももういない.この宿題はおそらく今生では果たせないだろうと思っている.修道士のあの境涯にはついに自分は至らなかったとも思った.異国の修道士のあの祈りに触れて,いささか人生の宿題を思い起こした次第であった.