季節感など

昨日の夕方ヒグラシが鳴いた.まさにこの声である.しかし,である.高原ならいざ知らず六甲山系の麓の西宮山手でこの時期のヒグラシは早すぎる.と思っていたら,今日神戸教室で福知山で田んぼも作りながら数学も教えているM先生が「昨日ヒグラシが鳴いていたが,早すぎる」といわれたので驚いた.今年はセミがおかしいと先生もいわれていた.やはりセミの季節感は例年とはちがうのだ.これが今春の東北地震の影響が残ることによるのか,それともセミが新たな地震の予兆を感じるからなのか,それはわからない.
考えてみると,さらにセミの季節感をおかしいと感じる人間の季節感がある.私はこれを大切にしたい.数学もこのような季節感と一体のものでありたい.
夕食をとった店の新聞にあるドイツ人の話が出ていた.ドイツは長い議論を経て脱原発を決めた.しかしそこには,コンビニもなければ自動販売機もないドイツ人の生活がある.日本人はこれが出来るのか,ということだった.それはそのとおりである.最近はようやくスーパーなどもまばゆいばかりの明るさはなくなり,落ちついてきた.この方がずっとよい.
また,今はどこでもテレビという巨大な放送システムがあり,莫大な電力を使っている.それで放送しているのはまったく愚かな内容ばかりだ.出てくるのは,愚民政策にひたすら奉仕する芸人ばかりで,まともなことをいえば出られない.まったく日本のテレビは何やっているのか.前にも書いたが,日本の民放テレビは,さあこれはどうなるのかというところで必ずCMを入れる.そこで思考が途絶える.子供があのような放送を無批判に見ていると,文章を流れのなかでつかむ力が大きくそがれる.これも官民挙げての愚民政策だ.このように日本では,コンビニ,自販機と,愚にもつかないテレビ,新聞に膨大な電力を使っている.これをやめれば原発は不要である.
しかし考えればそのドイツもすぐに今のようになったのではない.彼らは第一次世界大戦をやり,そここで空爆も戦車も毒ガスも発明した.もうこんな愚かなことはやめようとワイマール体制になったのだが,結局ナチスの台頭を許した.二度のこの経験,これがあって今のドイツやイタリアの脱原発がある.二回愚かななことをくりかえさないと世の経験として定着しない.これは悲しいが事実である.そして日本は,あの十五年戦争とそして今回の原発事故.二回の経験を経ている.ここで変わらなければならない。
青空学園は,自らの考える力は文教政策に抗ってでも自分でつけよう,と呼びかけてきた.数学の勉強をとおして,何ごともその根拠を問うことを学ぼう.現実を批判的に見る視点を育てよう,と呼びかけてきた.福島原発事故を契機に,自分で考え行動をはじめた若い人々が出てきた.これは希望である.いかに国家の政策が愚民政策であっても考える人間は考えてきたのだ.今その流れを少しは表に出したいものである.