秋の足音

秋が近づいてきた.7月11日以降問題作成と夏期講習で時間がいっぱいで,自分の勉強や考える時間をとることが出来なかった.昨日ようやく,難波誠先生の『代数曲線の幾何学』を読み返し,それからパスカルの定理の代数的な証明を整理した.これは昔『数学対話』でやっていたことだ.そのときは証明なしに使っていたことが,今回はすべて証明されているので,完結的にまとめることが出来た.難波先生の本にもあるようにパスカルの定理はベズーの定理の系としても得られる.しかし一気にそこまでゆくには,つまりベズーの定理を証明するには,準備が足りないし,これまでのなかで出来る範囲の代数的証明にとどめた.
とにかく,数学教師はこうして自分にとって新しいことを考え続けなければ錆びてしまう.生徒はいつでも彼らにとって新しいことを学んでいる.教える方が,新しいことに挑戦することがなければ生徒の気持ちもわからない.私はいつも数学の本を読んでわからないときや,例を作ってみないと理解できないときに,「生徒がわからないのもこんなんだろうな」と思うが,この感性が重要だ.
秋が近づいているのに,福島の現実はいよいよ困難である.中国で列車事故が起こったときに,その事後処理を揶揄する言葉もネット上で流行った.しかし,東電は実は中国鉄道省以上に悪質であり,それをそのまま垂れ流す日本の報道は,北京週報よりもっと,政権の御用新聞の度合いがひどい.などと考えていたら,日本のなかからもそのような批判が出てきた.「中国鉄道事故より悪質な日本の事故隠蔽」.まったく同感である.とりわけ「法的責任を負うべき当事者、つまり検察がまっとうに機能すれば当然起訴の対象となるべき組織と人間が、恣意的に加工して発信する情報を、無批判に世の中に広めているだけではないのか。」というくだりは,その通りなのである.福島事故は犯罪だ.にもかかわらず検察は東電を捜査しない.検察は旧体制の番犬なのか.
だが一方,なぜこのようなことを許しているのか,われわれのふがいなさを思わずにはいられない.そこで若い人はどう生きるか,これが「3・11後をいかに生きるか」の主要テーマなのだ.しかし結論だけを書いても意味がない.読んだ人がそこで考える空間をどのように生みだすのか,いろいろ考えている.
民主党代表選挙がある.問題ははっきりしている.アメリカの時代が終わりつつあるときに,その終わりつつある旧体制の側の人間か,それともこの衰退しつつある帝国からの独立を目指す側の人間か,結局のところ日本政治はこの問題に収斂する.旧体制がはじめに担いだのが野田であったが,あまりに人望がなく慌ててだしてきたのが前原だ.これに対する側は民主党の原点にかえれといっているし,そのことは正しい.ただ前原の後ろには親分のクリントンがいる.政治家としての前原は脇も甘く能力はないが,傀儡としては使い勝手がよい.そこでアメリカがどのようなてこ入れをするか.それを含めてこの選挙がどうなるか予断をもたずに注視したい.今年の秋は動乱の始まる秋か?