私的政治判決

異なる話題は日を分けることにする.
小沢元秘書有罪.これは言うまでもなく完全に無実なことだ.そのことを植草さんが判決前日に書いておられる.検察や裁判所は東電のような明らかな犯罪でも旧体制の仲間なら捜査もせず,都合の悪いものへの政治事案は何もないところでも事件にする.まだいくらかの人は「裁判所が有罪というのだから何かあるのだろう」と思うだろう.しかし真実何もない.問題の本質は「小沢秘書逮捕問題」で書いたとおりだ.今回の判決の意味は植草さんの「本性剥き出し米官業利権複合体による不当判決」にあるとおりだ.国策捜査,国策裁判がいわれたが,ここまで来るとこれはもう米官業利権複合体の私的裁判,私的判決である.ここで有罪にしなければこれまでの検察のシナリオを否定しなければならない.それは国家司法として出来ないし,さらにアメリカの後ろからの圧力があった.その結果の地裁判決である.
それにしてもこのような事案で有罪にするということは,それだけこの判決を書かせた旧体制(米官業利権複合体)にもはや余裕がなくなっているということである.大きな歴史にかかわる政治的なものごとは,議会や選挙や裁判やそういうところでは決まらない.旧体制への人々の怒りと,それを背景に街頭に打ち出る力,人間の尊厳を守るためには命も惜しまないという一人一人の決意.こういう力こそがものごとを決める.チュニジアもエジプトもそうだった.彼の地の裁判所もかつては一方的な政治裁判所であった.日本でも,これだけ検察や裁判の本質があからさまになる時代になった.若い人が,よく情報を集め,自分の頭で考え,この世の本質を見ぬいて,そのうえで自分の生き方を考えることを願っている.そうして人間らしい困難でも生き甲斐のある人生をおくってほしい.写真はカマキリ.秋である.