人に会う(続)

昨日,先日書いた,京大にあった在家の参禅組織である智勝会に私が在籍していた当時,幹事をしておられたMさんに,再会した.40年以上の時を隔てての再会であったが,会うなりすぐにわかった.この再会は私が1968年頃の同時代史を,私のこととして残しておこうと書き置いたものを,ある人が見つけそれをMさんに伝えてくれたから実現した.あの一文がまさかこのような形でMさんとの再会につながるとは思ってもみなかった.お互いに公私ともどもこの40年の話しをするのに時間はあっという間であった.かつて世話になった寺の人が今は大徳寺のある塔頭の住職をしておられるのだが,毎年四月にはそこで智勝会のいわばOB会をしているとのこと.来年の参加を約して別れた.
智勝会は西田幾多郎の伝統をひいた在家居士の参禅会で,京大学生や院生が多かった.そこに参加した人が各地の大学教員などになり,いろんな大学の人が参加するようになった.それから時をへて,今は京大生は一人もいないとのこと.それが現実でもあり寂しくもあった.せっかく京都の大学に学びながら,厳冬の相国寺僧堂で参禅しようとする学生は一人もいないのか,と思う.京都は大学そのものより街とその歴史とそこで育まれた人々の生き様が大切なのだ.禅寺もまたこの街とこの歴史のなかにある.そういう京都がもつ求道の心はもう失われて久しいのだろうか.その点いろいろ考えさせられた.
先日書いた射影幾何の命題は依然として証明できていない.3週間同じ問題を考えている.少しずつ深まっているのだが,いつこの壁は破れるのだろう.ここを乗り越えないと先には進めない.