十万人集会

 今日の十万人集会は十七万人の参加で,数においても,参加者一人一人の気持ちの大きさにおいても,大きな集会となったようだ.私も参加したかったのだが,授業があって参加できなかった.代わりにというわけではないが,家族が参加してきた.彼女はスクールカウンセラー福島市の小学校にも二月以来八回ほど通ったので,東京までは近いもの.友人と二人の個人参加である.代々木公園で瀬戸内さんの九十歳の若々しい声にも接することができたとのこと.その後デモにも加わって戻ってきた.ということで家族からの参加1名であった.写真速報7.16写真報告(Shinya)さようなら原発10万人集会 福島の思い 怒り空からの報道
 昨年の同じ集会が六万人.そのときから参加者が十万人増加したのは,あまりに無残な日本の政治の現実への怒りである.結局あの野田首相の談話かも知れない.「国民のため」といって原発再稼働.それはない.それはウソである.さらに官邸前集会に「大きな音」.どこの総理だ.やめてしまえ.消費増税,米軍欠陥ヘリの配備受け入れ.核燃サイクル継続.アメリカの傭兵として外に出て行く自衛隊.これまでのことを省みるどころか,やりたくても出来なかったことごとを一気にやろうとする野田政権.その怒りが人々を動かす.多くの人の参加.一人の背後に百人,千人の人がいる.実際帰りの新幹線で隣り合わせた静岡の人が「私も行きたかったが仕事で」といっていたそうだ.この量は必ず質的転換を求める.
 おりから,「将来のエネルギー政策に関する国民の意見聴取会」が順次開かれている.しかし,東電の核惨事について,未だ誰も責任をとっていない.第一義的な責任はどこのあるのか,それさえ明確にされていない.三案の検討といわれているが,今すぐ廃炉にするか,当面使うか,その二つしかない.それを三つに分けているのは,当面使う立場に多く喋らせるためである.このようなやらせの官製集会で,許されないのは,次のような意見が出されること自体である.時事ニュースによれば16日には,名古屋市で開かれたが,『中部電力社員と自己紹介した男性は3番目に発言し、電力の安定供給と経済への影響を重視する立場から原子力発電の必要性を主張した。また東京電力福島第1原発事故に関し「放射能の影響で亡くなった人はいない」と述べた。』という.
これは事実において違う.避難区域では独居老人が何人も置いてきぼりにされて餓死した.地震津波なら訪問して一緒に避難できた.放射能が来るということで,連れて出る時間がなかった.これは現地の町の福祉の人の言葉である.この放置されて餓死した人の死は「放射能の影響」そのものではないか.この言葉がこの集会で出たとき,それを糺すものはいなかったのか.人間として許すことのできない発言である.大江健三郎さんが言われたように「大飯の原発再稼働を許してしまった。これは私たちが侮辱されているということだ。」.中電社員の発言は,核惨事で生活を奪われた当事者を,そしてデモに参加する人々を侮辱するものである.
 追伸:武田先生の「無念の死を遂げた人たち」に共感する.また「大事件1 中部電力課長の発言から一夜」,「大事件2「福島原発事故は事故ではない」の電力と日本社会の力勝負になった」も必読である.
 いまほど二つの立場の対立が明確になったことはない.東電核惨事は,二つの立場を否応なく明確に浮かびあがらせた.中電社員の発言は,電力会社,原発利権,原子力村,旧体制の立場であり,それを一言でいえばカネがすべての立場である.電力会社の財務のために原発を動かす立場である.それに対して,音楽家坂本龍一さんは「たかが電気のために、なぜ命を危険にさらさなければならないのか。お金よりも命が大事だ」と訴えた.つまり,カネより人間,という立場である.経済か人間か,それが一般的に問われている.そういう時代になったのだ.これは大きなことだ.こういう時代に巡りあわせたのは,ある意味で幸せである.が責任も大きい.
 歴史は紆余曲折.すんなりとはまったくいかない.この脱原発の運動がさらに高揚したとき,政府は尖閣諸島で中国と小競り合いを起こすだろう.そのためにオスプレイ配備を急いでいる.それがどこまで進むかはわからない.同時に御用新聞を使って,反核運動は中国を利する,という宣伝もするだろう.少なくともそれも選択肢に入れて,準備している.この夏から秋にかけて,事態は切迫しそうである.それは不可避である.こういうときこそ原則的に,過激に,つまりは人間に則って,考え,行動しなければならない.
17日朝,増訂.夜写真追加.部屋に迷い込んだニイニイゼミ