20回目の月命日

3.11から20ヶ月.その月命日の今日,全国各地でさまざまの集会が行われた.東京の様子の写真速報田中龍作ジャーナル.大阪では雨の中「原発いらん!被曝させるな! 11.11関電大包囲」であった.幟も組合旗もかまわないということで,こちらの感覚になじんだ集会だった.西梅田公園に集まり集会し,それから移動して関電正門での集会であった.雨が強くなりカッパを着っぱなしであった.多くの人がそれぞれに語っていた.こちらは午後に家を出て,知りあいと一緒に11月24日の「原発ゼロ社会実現シンポ」集会のビラ配布を手伝った.これを主催している人の幾人かは2年来のつきあいである.私としてはこういう市民の自発的な行動がなにより大切で,それを土台にした国民連合の運動は必要であり,日本の歴史は必ずその段階を通らなければならないと考えているので,できることは手伝うつもりだ.
集会でも訴えられていたが,震災瓦礫広域処理への怒りも大きい.ここに当日の瓦礫償却反対運動の人の発言がある.震災前は,放射性セシウム濃度が1kgあたり100ベクレルを超える場合は,特別な管理下に置かれ,低レベル放射性廃棄物処分場に封じ込めることになっていた.100ベクレルの放射能を人に振りかければ犯罪である.その法律はそのままに,当初福島県内限定の暫定基準として出された8,000ベクレル(従来の基準の80倍!)を,広域処理の基準にも転用した.現在,原子力発電所の事業所内から出た廃棄物は,100ベクレルを超えれば,低レベル放射性廃棄物処分場で厳格に管理されているのに,事業所の外では8000ベクレルまで許される.この二重基準の下,震災瓦礫が大阪湾の人工島で燃やされる.北九州市ではもうはじまっているが,これを大阪でもやるのか,やらせるのかということである.
暫定基準をつくることそのものがいかに非人間的なことか.本来の基準なら福島の人たちは疎開が必要なのだ.少なくとも子供や若い家族,若い女性の疎開が必要なのだ.それをせず,それどころか,その核汚染を全国化しようとする.それが瓦礫広域処理の実際である.ここには国家による二重三重の犯罪がある.また,東電は少なくとも業務上過失致死であることは明白なのに(私は未必の故意の殺人だと考えるが)この1年半,何も問われず放置されている.原子力村あげての犯罪を,必ず裁かなければならない.
9日の関電前集会は定例のこととして参加した.寒い中にもかかわらず,7時頃にはいつものように人が集まっている.このように行動が持続するのは,政府,関電,東電のなすことやることが,あまりにも人々の思いと逆であるからだ.活断層の疑いがあればその上に原発は作れない.しかし調査した委員会は稼働停止の勧告さえ出さない.法はあってもはじめからそれに従うつもりはない,これが今の政府と原子力村の一貫した姿勢である.それぞれの人が生活のなかで自分で考えやむにやまれる気持ちで毎週毎週やってくるのがよくわかる.
もっといろいろ詳しく書きたいことも多いのだが,最低限の行動以外にあまりこちらに時間がとれない.この2,3日パスカルに関する本を2冊読んだ.『パスカルとその時代』(中村雄二郎東京大学出版会,1965),『ジャンセニスム』(ルイ・コニュ,朝倉剛・倉田清共訳,文庫クセジュ白水社,1966).いずれも半世紀近く前の出版である.これを古本で手に入れ読んだ.今日からはルフェーブルの『パスカル』(川俣晃自訳,新評論社,1954)である.パスカル,ときどき吹きあがる地下水脈のようなもうひとつのフランス.近年はシモ−ヌ・ヴェイユ.現実のフランスを照らしかえす知性と行動.科学者パスカルキリスト者パスカル.その分離と統一.どこまでつかめるのだろう.とりあえずのことを加筆してPDFを改訂した.そしてようやくパスカルの円錐曲線試論の再読に入った.
いつまで頭は動くのだろうという気持ちをどこかにもってやっている.最後の写真はようやく色づいてきた兵庫県西宮市夙川上流.六甲山系東端.今年も紅葉は遅いが,このような光景には慰められる.