未来の党と廃炉工学

日本未来の党原発政策を含む基本政策を発表した.HPにその全文がある.原発の再稼働は認めない.関西電力大飯原発福井県おおい町)即時停止.電源開発大間原発青森県大間町)の建設中止.高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)や青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理施設も即時廃止.当初の3年間を「原発ゼロ」の環境整備を行う「助走期」と位置づけ,その後の7年間を「離陸期」とした.基本的にこれを支持したい.
さっそく大手の新聞やテレビは「代替策が明確でない」というところに統一して批判している.しかし50基中2基しか動いていなくてもやってゆけたように,電力は足りている.代替策は長期の計画でよいのである.日本の大手報道機関は基本的に電力会社の宣伝機関でもあり,原子力政策の変更に反対である.実際,この政策は,それを実現しようとすれば戦後の政治と社会のありかた全体の作り替えを必要とする.そういう内容である.日本一新の会・代表 平野貞夫さんが「メルマガ・日本一新・通巻第138号」で

戦後日本の繁栄を別の角度からいえば、「原発資本主義」といえる。きわめて歪んだわが国の繁栄は、「金権日本人」をつくり、「傲慢な日本人」を生み出した。そして、原発の利権に関わる官僚と学者、そして企業がエネルギー政策を支配し「国家資本主義」をつくりあげたのだ。さらにいえば、、今日の日本の政治・経済・社会のすべてにわたる劣化・惨状の原因は原発資本主義にあった。

と書いておられたが,これはその通りである.そしてこの原発資本主義をやめて共生社会へというのが日本未来の党の政策の基本である.東芝や日立といった原発にかかわる大企業,電力会社,それから金融機関,すべての分野にわたるものであるが,このような産業界と,そしてあらゆる省庁官僚機構の上層部,最高裁事務局を核とする司法機構,そして原子力工学部を中心とする大学機構,これらが原子力村を形成し,それが全体として戦後のアメリ覇権国家の下にあった.これが原発資本主義の実態であり,これをやめようというのである.嘉田さんや小沢さんは,今回の選挙で一定の力を確保し,次の参議院選挙,そしてその次の衆院選で多数派を形成するとの予定を立てている.チェルノブイリ核惨事から5年で旧ソ連邦が崩壊したのと同じくらいの時間である.そのためにできることはしよう.
日本では第二次世界大戦後,「原子力の平和利用」の名の下に,その研究機関として各大学に原子力工学が置かれ,独自の発展を遂げた.1950年代後半にシカゴ大学のアルゴンヌ国立研究所留学から帰国した鳥飼欣一ら研究者によって,1956年(昭和31年)茨城県東海村の日本原子力研究所で原子力の研究,原子炉の製造が始まった.近年は原子力工学の人気がなく,東大は科名を「システム量子工学」,京大は「物理工学」などに変えている.しかしこれはごまかしであり,中味が「原発資本主義」の基礎研究であることに変わりはない.
大学の工学部というものは,産業革命以来,一貫して新しい技術を研究し,生産力を高めるための基礎研究を行うところであった.資本主義が拡大してゆく基礎には技術の発展があり,その研究もまたそれ自体は必然である.その行きつくところが原子力工学であった.しかし原発技術は完結したものではなかった.産業廃棄物としての使用済み核燃料の処理技術がまったくないままであった.他の分野ではそのような技術は未完の技術であり実用化できるものではないのであるが,もともと核兵器の技術としてはじまりその兵器技術を保持することが原子力工学の隠された意図であったから,未完の技術でも原子炉をつくった.
この後始末のために,後世には膨大な時間と費用のつけを払わせる.せめて大学の原子力工学にかかわった人たちはその責任として,廃炉への道筋を研究すべきである.未完の技術で作り半世紀動かしてきた原子炉をいかにして廃炉にするのか.その廃棄物をどのように処理するのか.「システム量子工学」とか「物理工学」とかにごまかすのではなく,原発への警鐘を鳴らし続けてきた研究者も迎え入れて,「原子力工学科」を「廃炉工学科」に改変することを提案したい.
近代の大学は基本的に産業の拡大と一体であった.今ようやくに産業拡大のための研究機関としての大学という段階が終わりつつある.作ってしまったものを片付けるための研究,これを位置づけられる大学に変わらなければならない.廃炉工学とはつまり,戦後の政治体制がつくったまさに負の遺産である原子炉を廃炉にするための理論であり,政治の場で未来の党がになうべき課題の,工学の場での課題である.21世紀〜22世紀の大学は,産業革命以来の不合理,富の偏在,人間性の蹂躙,環境破壊,その他諸々…,これらに始末をつけ,人間原理を打ち立ててゆくための学問,その研究が中心にならねばならないのではないか.大学の中にいる人のなかから,現実から目をそらさず,新しい方向が提案されることを願っている.