阪神大地震から18年目に

 阪神淡路大地震から十八年である.あの日のことは,六年前に「阪神淡路大地震から12年」に書いた.まったく災害は忘れた頃にやってくる.あのときも,まさか地元が震源とは思いもよらなかった.「西宮でこれなら,東京は一体どうなっているのだろう」などと考えていたのであるから.そしてあの地震以降,日本列島弧は地震の活動期に入ったように思われる.こんな地震列島に原発を五十基以上作ってきた.それが日本なのだ.われわれはこれからも災害のなかで生きてゆかねばならない.そして今はもう3.11から2年になろうとしているのだ.福島の今について貴重な報告に出会った.

 日本の危機の象徴が、原発被災地=福島だ。新年号は、福島取材の報告とした。彼(女)たちの放射能に人生を翻弄され悩む姿から、もう一つの世界の指針となる世界観・自然観が観て取れる。

 これは大阪にある「人民新聞」1468号の編集部の言葉の中にある一節だ.人民新聞は昔風の言い方をすれば左派系の新聞.ただし党派の機関紙ではない.彼らは大衆政治新聞といっている.3.11以降,旧来の意味での右や左は意味をなさなくなった.だからもう左派系の新聞という必要はない.その内容はいつも感心するくらい現場主義で,大新聞が絶対に取りあげない現実の問題を,地についた取材で報道している.
 人民新聞とのつきあいは古い.われわれのもう一回り二回り上の世代で,戦後の動乱期,50年代の労働運動,農民運動,朝鮮戦争反対の運動,そして60年安保闘争の時代を経てきた人たちが,1968年頃前身の新聞を出した.その人たちと全共闘世代が,1973年末の頃大阪で合流して,それからいろいろな活動をしてきた.能勢の農場や牛乳,自然食品の配達販売が中心だったが,今は実に手広くやっている.そのなかで,1976年頃人民新聞の名になった.私はその人の流れは知らないで,1973年秋に兵庫県で教員になった.1980年頃に兵庫高教組西阪神支部支部長をしていたときに,自分の職場で許せないことがあり,大きな争議になった.人民新聞もその取材に来た.経歴や立場の似たようなものどうしだった.確かその頃からずっと送ってきてくれている.その後彼らのグループには何度も世話になった.編集長も何代も変わっている.1968年からもう1468号だ! こういうことを書いておきたくなるのは年のせいか.
 現編集長の山田さんが昨秋,福島を取材してきた.[福島・二本松]引き裂かれる被災者[飯舘]帰りたいけど帰れない[二本松]未来見据えた地域戦略構想中である.紙媒体中心の新聞だが,いくつかの記事はネットで読める.昨夜は,数学の本を読むつもりが,夕方の郵便できた人民新聞を読み続けてしまった.読まずにはいられなかった.確かにここには絶望と,そしてその向こうの希望を読み取ることができる.縁あってこのブログを読んでくれた人は,ぜひこの3本に目を通してほしい.人民新聞も経営は苦しい.もしその他の記事もと思われた方は,試読とその後の定期購読を.
 先日「われわれの側の報道網が広がればと思う」と書いた.こういう新聞は各地にまだまだあるだろう.それらが互いに他を尊重しつつ,もっと繋がることを願っている.阪神大震災バブル経済崩壊の象徴だったとすれば,東北大地震と東電核惨事はより大きく戦後政治の崩壊のはじまりの象徴だ.安部政権はその過程の反動である.これと闘い,さまざまの運動の連合が深まるために,相互批判・議論の場がまだまだ足りない.人民新聞の地道な報道と紙面の議論に期待したい.