友あり遠方より来たる

 友あり遠方より来たる,また楽しからずや.このブログはもともと個人の日記.私的なことを書いておくのも許される.今日は2人の友人がわが家に来て,あんこう鍋で歓談.私は昼前に阪神西宮の食料売り場までバスで買い出しに行ったのだ.そして夕方から夜,ひとときを過ごして泉南のほうに戻っていった.この2人との会食は2年ぶり.前に会ったときのことは「人と会う(続)」に書いた.それ以来の再会であった.Tさんはその後鬱になり少し落ちこむ時期があった.そこからようやく立ち直り,今日来てくれた次第.彼は数年前,連れあいを突然になくして,苦しいときを経てきたのだ.私もいれて3人で,日本酒からワインから焼酎から,家にあった酒を飲み干していった.
 Tさんは,私が京都北白川の下宿で彫り物をしていたのを覚えていてくれた.写真右は円空護法神をまねた私の作.実家が裏塀を直したときその残り木を下宿にもってかえり彫っていた.そのときに彼が来たそうだ.こちらは覚えていない.彼は私が彫っていたのを覚えていた.棚の上に置いていたのをもってきて見せると「これこれ」と懐かしがった.「Tはこれを覚えているのか」.彼にすれば40年ぶりに再会した彫りものであった.古い友だちだ.彼は広島の人.父親は広島市で教員をしていた.ほんの偶然で原爆の日広島市内にいなかった.彼は被曝二世.若い頃いちど彼の実家に行き,お父さんにも会ったことがある.地元の神官だった.今実家は留守宅.彼がときどき帰り手入れをしている.いずれ広島に帰るとのこと.
 Uさんは,わが家の小さな生け花を褒める.私がこしらえたもではない.ちょうどそこへ彼女が帰ってきて歓談.そのUさんは,東電福島原発の老年行動隊に登録しているそうだ.金曜行動も前にいったことがある.最近金曜は用事が重なることが多いとのこと.Tさんの組合は,20年以上闘ってきた争議も大詰め.話しの中で,Tさんも組合の執行委員会のない金曜の夜は関電にいこう,ということになった.
 考えてみれば,京大の数学教室の同級でそれ以降もつきあいのあったひとは一人もいない.2年前にあった三重大のKさんとは40年ぶりだった.Kさんとの再会も「人と会う(続)」に書いたが,会ったとき「お前生きていたのか」が第一声だったような次第.私は大学院を離れるとき指導教官にはあいさつしたが,同級の者からすれば突然京都からいなくなった人間.当時はドロップアウトと言った.今風にいいえば落ちこぼれ.私は「能動的落ちこぼれ」と思うが,とにかく数学研究者の世界から落ちこぼれた人間であった.そして別の世界で生きてきた.つきあいの続く友人たちはみなその別の世界で出会った人だ.Tさんも広大の同じ教室の人で今も連絡あるのは一人だといっていた.われわれの世代はそういう時代だった.
 つくづく思うが,それぞれに転換期の人生である.Tさんが帰りの地下鉄からメールをくれた.「今夜は有り難う。たっぷり飲みました。U君と梅田で別れて地下鉄です。今夜、話が続けられたら、内山節の言う世界観を貴兄の場合どうなのか聞きたかったのです。また機会を願っています。今夜の歓待有り難うございました。嫁さんの趣味が、素晴らしくて佳いですね。また今度!」 彼に返信した.「今日は楽しいでした.時代の転換期に,われわれの世代が書き残しておかねばならないことが,いくつもあります.私は,内山先生の全体を理解したとはいえないのです.それでも読むかぎり,内山節の世界観は無理なく受けいられらます.その先の宗教的観点,これがわれわれの世代の課題ではないかと思います.神道の問題も,ここに係わります.一度またお越し下さい.」 その嫁さんに言わせると「あんたら好きなように遊んできたのと違うの」ということになるのだが,まあまあ.もつべきものは友人! という日もありかなと思う.
 写真はそれぞれ円空を模したもの.上が護法神,1972年.中のは観音,下のは自刻像,1971年.あの頃,京都の下宿でこういうものを作っていたのを,今日は思い起こさせてくれた.