二月終わる

二月が終わる.小さい頃から二月というのは,正月が終わり,まだ春が来ない,そして寒くてしもやけがかゆい,そんな季節だった.でもこの時期に籠もるから,そこで魂がこめられ,その力が春を呼ぶ.二月から三月への移り変わりを,何とも懐かしい思いとともに,毎年この時期味わっている.
2月26日に国立大学前期試験が終わり,この三日間,問題を解き続けた.今年難問と評価された問題で入手できたものはほぼ解いた.問題を解き,入力して,PDFファイルとHTMLファイルを作る.12題,朝から晩までやっていた.基本的に,問題を解くのは好きなのだ.集中してしまうと他のことが出来ない.それでもわれわれにとって問題を解くこと自体は難しくない.難しいのは問題を作ることだ.今も問題作成の仕事をかかえているが,大学が要請することと今の高校生の力とを頭に入れて,それに対応することが出来るような問題を作る,という仕事で,これは仕事としてはなかなか難しい.そのためにまず今年の問題をこちらも頭に入れておくということ,それに三月になったらこれをふまえて新3年生に話しをする,その準備,それらをかねての解答づくりであった.
その一方で考える.それにしても,このような入試で大学は何を問おうとしているのか.そもそも今の大学は高校生に問うべきことをもっているのか.日本企業の凋落がいわれて久しい.先日,中学の同窓会があり,松下電器系列の会社の社長を務めた人や,同じ松下の研究者を今もやっている人もいて,いろいろ議論した.退職したときに買っておいた松下の株が三分の一になったとかいっていた.株とかはこちらにはあまり縁のない話だが,企業の将来が悲観されていることはまちがいない.パソコンソフトの技術一つをとっても,例えばNTT系のOCNのクラウドソフトとSugarSyncのようなアメリカ製のソフトを比べると,アメリカ製の方がはるかに使いよい.パソコンも日本製は高いばかりである.そしてソニーは結局アップルに敗退した.
なぜか.私は,枠組みを作る力が,決定的に日本企業に欠落しており,それはやはり近代日本の問題そのものだと考える.その結果,大学は今何を高校生に問えばよいのか見失っているのではないか.今年の問題を見てもそう思う.その立場で議論したのだが,松下の人らはそこで実際に長くやってきただけに,大きく問題を捉えることはできないように思った.もとより,私のような立場から大きく問題を捉えても,それでどうするのかということになると,やはり問題は簡単ではない.
去年も書いたが,日本の大学は,自由な発想,自由な生き方のないところになってしまった.3年になったら就職活動など,どう考えても異常である.3,4年生で少なくとも専門分野で何かひとつ研究をやって,それをもって自分の進む方向を決めるということでなければならないのに,まったくそうなっていない.3,4年での勉強など,企業はまったく期待していないのだ.しかし,おそらくそれでは企業自体の創造性がなくなり,衰退してゆく.
今の諸々の世の動きを見ていると,日本で何かの新しいことごとは,大学や大企業といった既成の体制からはずれたところでしか生まれないように思う.もちろん優れた人,立派な人は大学にも多くおられる.しかし制度としての大学や企業にもはや創造性はない.われわれもそんな中でこの体制から一歩引いて別の道を歩んできた.いまの大学生も,この大学という制度の中で,そこから自由に考え,生き方を選びなおせる若者はいるはずだ.でもそれは結構苦労も多いので,安易にはすすめられないが.悩めば原理原則に立ちかえって考えてほしい,とだけ言っておこう.
一方で,問題を作り塾産業でメシを食いながら,しかし,制度としての大学のあり方には原理的な批判をする.これは矛盾であるが,どのみち現実に存在する制度は矛盾に満ちている.しかし人間は生きている.この矛盾の中で考えることのできる力をつけてもらいたい.根拠を問うこと,現実を批判すること,これを数学をとおして学べ.これがこちらの言いたいことで,私のHPのあちこちに書き込んでいる.矛盾の中で,歴史的時間=縦軸においても,同時代の世界の動き=横軸においても,広がりと普遍性をもちうる枠組みを創造する人,そのような若者の出現を期待している.いや,若者にいう前に,これは今もわれわれ自身の課題なのだ.
写真は二月の花.水仙サザンカ.そして白梅と紅梅.二月の輝き.