春のおとづれ


3月も半ばを過ぎて,春の訪れ.「おとづれ」とは「音連れ」.「岩波古語辞典」には「相手に声を絶やさずにかける,手紙を絶やさずに出すが原義」とあるが,私はむしろ,「鉦(かね)の音ともに門前にやってくるまれびと」の意味ではないかと思う.春は,鳥の声,春の嵐,谷川のせせらぎの音.音とともにやってくる.これは去年も書いた(「春の訪れ」)が,昔,故郷の宇治では,この時期になると,街道を物売りが「ものほしざお〜」とかいいながら通る.三月の日光が窓をとおして畳を照す.街道を通るもの売りの声が静かに小春日和の明るさのなかを家のなかまで届いてきていた.この物売りの声もまた,春の音であった.そういう地方の街の季節の風情は,いわゆる高度経済成長のなかで失われていった.
春の訪れは,稲作りの仕事始めでもある.苗代を作り籾を播き,田をかえし,田植えの準備をする.春に新しい学年が始まるのは,このような農耕文明の季節感に裏づけられたことだ.だから私は秋入学に反対だ.秋をはじまりの季節にするのは狩猟文明の季節感である.あわせることはない.
さてこうして,今年も新しい年度が始まった.毎年この時期,今年の入試をふりかえってその分析と,これからの勉強法について話す.高校での勉強については『勉強のすすめ』に書いている.その内容を,そのとき時の雰囲気と持ち時間のなかで,その場で選んで話す.毎年こんな具合である.

  • 受験勉強は長い.長くかかるスポーツは? 「マラソン.」 合格することはマラソンではどうなること? 「ゴールする.」 そう,完走することだ.やりとりはここまではすぐにすすむ.しかしよく考えよう.完走するかどうかは,他人との関係ではない.自分との闘いなのだ.勉強するものこれと同じ.
  • 昔,自転車に乗れるようになったときのことを思い出そう.なぜ自転車は倒れない? 「慣性の法則かな?」 いずれにしても回転しているかぎり理論的に倒れない.しかしそれで乗ってみると? 「倒れる.」 親や兄姉が,こうやって乗るのだ, と手本を見せてくれたかも知れない.それを見て,簡単そうに見えた.しかしそれで乗ってみると? 「倒れる.」 結局,自分で練習しないと乗れない.数学も同じ.
  • だから,必ず予習をする.でも多くの場合途中で止まる.授業を聞いたらそれは理解できた.しかし,自分の途中で止まったのはどうする? そのままにしていないか.途中で止まるのは 1)その方法では解けない. 2)できなくはないが,複雑で下手すぎ.のいずれかだ.必ず自分が止まった理由を考える.わからなければ「この方法でもできるのですか」と納得できるまで教師に聞く.この積みあげ.それが勉強だ.
  • 途中で止まること自体はそれでいい,と言ったが,しかし皆さん簡単にあきらめすぎる.「わからない,から,あと5分,考えよう」.わかるというのは不思議なことだ.無意識の中に蓄えられていることが現れ結びつき解けるのだ.それを引っ張り出すのは,あきらめず,もう一息考える粘りと集中力だ.もう一滴も出ないと思ったぞうきんも,もういちど力を入れて絞るとまだ水が一滴落ちる.それは嬉しいことだ.
  • こんな話は何回もしないので,最後に合格したときのことも言っておこう.いずれ,長くても2年のうちに,皆さんは合格する.だから,受験そのもは人生の岐路ではない.しかし合格したとき,「これで遊べる」と思うか,「これで好きな勉強ができる」と思うか.それは大きな分かれ目だ.合格したとき,どのような学生生活を送ろうとするのか,それが大切なのだ.

現実の制度としての選抜制度はどのみち矛盾に満ちている.そのなかで,問題を自分で受けとめてそれから逃げずに取り組む,このような人生態度を受験勉強を通して身につければ,それは一生の財産になる.そしてそのなかで,わかる喜びもまた必ずある.一人一人の能力は個人の持ち物ではない.少しでも世に循環させてゆくようにしていってほしい.矛盾のなかで,せめて出会った生徒にはそういうことを伝えたいと思っている.
ということで春の間は仕事と重なり,金曜行動は3回続けて休み.しばらく世の動きを見ていなければならない.4月後半,1期が始まれば,今年も金曜日は空けているので,また参加できる.写真は,夙川の鳥.名前を知らない.満開のハクモクレン.大根の花.