『禁じられた歌』を読む

八木啓代(やぎのぶよ)さんの『禁じられた歌―ビクトル・ハラはなぜ死んだか』を一気に読む.もとは1991年に出た本で,読みたいと思っていたがようやくkinddl版で再刊された.これをAndroid端末に入れて読んだ.著者は,ラテンアメリカと日本を拠点に活動する音楽家・作家である.この本ついて,彼女はそのブログ「八木啓代のひとりごと ラテンアメリカと日本を拠点に活動する音楽家・作家 八木啓代の独り言〜今日の料理から政治まで」のなかで「長らく絶版状態だった書籍をリクエストにより電子書籍で再版いたしました。八木啓代の原点と言っていい本です。」と書く.
まずはビクトル・ハラの声を聴こう.Victor Jara - Te Recuerdo Amanda(アマンダの思い出).youtubeにはハラの多くの歌や映像が残されている.この歌い手,ビクトル・ハラは1973年9月11日,アジェンデ政権が軍部のクーデター倒れたその日,集められたスタジアムで皆を励まして歌い続け,そして軍によって殺される.その人生の概観はたとえば「あの人の人生を知ろう〜ビクトル・ハラ」などでわかる.それから36年後の2009年12月5日,首都サンティアゴ・デ・チレでハラの葬儀が催され,数万人の市民が参加した.1973年当時,ピノチェト軍事独裁政府の弾圧によってハラの葬儀を公式に開催することができなかった.36年の時を経て公式の葬儀が行われ,当時のバチェレ政権の閣僚や政党幹部らも参加した.
八木さんは中学生のとき,偶然ラジオでビクトル・ハラの歌を聴く.それまで耳にしたことのない,不思議な力と温かさに満ちた歌だった.もっと知りたい.チリにはいけない.外国語大学生のとき交換留学生でメキシコに渡り,スペイン語を学ぶ.その地で歌手としての力を見出し,以後,南米と日本を行き来して音楽活動や執筆活動を行ってきた人である.メキシコでの学生時代,ハラの生きかた,その時代,人との繋がりを知ろうと,多くの人に会い,文通し,資料を集めた.死後20年近くをへて,生前のビクトルと交渉のあった人々の肉声をもとに,書き下ろしたのが本書である.それらのことは彼女の出身高校である大阪北野高校の同窓会のインタビューに詳しい.
私がこの本の中でとりわけ心を動かされたのは,シルビオ・ロドリゲスが著者に語って聞かせた言葉だった.彼女はその行動力で,1988年,キューバの首都,ハバナで音楽家シルビオ・ロドリゲスに会い,ハラとの交流を聞き出す.

 彼(ハラ)自身も言っているように,若い世代というのは,いつだって,現代に通じる言葉を求めているものだから,若い世代の心に届くメッセージを伝えるためには,そういう方法をとらなければだめなんだということ−−おじいさんの言葉で孫に語りかけるのではなく,おじいさんの智をもって,孫の言葉で語りかけなくてはならないのだということ−−なんだ.
 僕は,ビクトルの持っていた,この視点と感性はものすごく重要なことだと思う.
 あの最後の瞬間に,彼にはわかっていたはずなんだ−−と,僕は思う−−息をするのすら辛かっただろうとは思うけど……民衆のよりどころとか,貧しいものの大義とか,社会正義の根拠というようなものは,プラカードや標語に書かれているようなものではなくて,もっと深いものだということ……彼の最期は,その当然の帰結として,彼自身の望むところであったに違いないんだよ.

これは身につまされる言葉だ.前の言葉は自分自身への戒めとして.授業でもそうだし,HPでもそうだし,このようなところでの文書でもそうだ.後の言葉は,この間の自分であちこちの人の動きの中にいて考えることと繋がって.これを引き出した,当時まだ若い留学生であった彼女の人間性,それに感服する.
このシルビオ・ロドリゲスの言葉は1988年のものである.南アメリカは,こうして人類の歴史のなかでもっとも先進した地域となった.何が新しいのか.何が先進しているのか.それは,このように語る人がいて,そこで語られる人々の力が実際に組織され,政治を動かす.それを支える理念と思想が,民衆の芸術に深く根ざした音楽家の言葉として出てくる.
このような言葉の後ろにある,長い独立闘争の歴史,まさにコロンブスに見つけられて以来の西洋植民地主義との闘いの歴史,それに捧げられた犠牲の大きさを思う.われわれはようやく今になって,つまり福島の核惨事を経て,このキューバの芸術家の語るハラの言葉が,本当に切実なものになった.実際,ハラの歌は,再稼働に反対するデモや集会の中でも歌われている.
八木さんは,アメリカが背後で糸を引いて,アメリカの意のままにならない政権を倒そうとする現実と,その一方で,それと闘う人々の運動を,本当に身近に見てきた.そのなかで生まれた人々に根づいた音楽を,自分の芸術の分野としてきた.それにしても,戦後世界における帝国アメリカと強欲な資本主義の醜悪さ.このような国家が長く続くことはありえない.
そして行き来する日本をみれは,小沢一郎氏に対する人間破壊攻撃のように,アメリカが背後で糸を引いて,検察や司法,マスコミを総動員して,都合の悪い政治家をおとしめてゆく現実がある.かつての南米と同じことが現代日本でなされている.チリでは軍部が兵士と武器を動員してアジェンデを倒した.日本では官僚が検察・司法とマスコミを動員する.手段は違うが中味は同じである.
これは何かしなければならない.それで,彼女は「健全な法治国家を求める市民の会」を立ち上げる.「2010年10月より活動中の、検察暴走にNOを言う、顔の濃い市民団体」とは彼女の言葉であるが,検察を告発し,多くの時間と力をそこにかけてこられた.なぜ音楽家である八木さんがそこまでするのか,その原点はまさに本書にある.20年も前に書かれたものであるが,とりわけ日本においては今こそ新しい.今の日本でこそ多くの人に読まれるべきである.
写真は春の野の花.虫も写っている.小さな小さな春の命.それと夙川上流のサクラ.