ある春の夜に

今日でようやく春期講習が終わる.朝から晩まで,神戸から大阪へと1日6時間授業をするとさすがに足は疲れる.しかしそれぞれ自分の問題もかかえたいろんな生徒が来ていて,それはそれで面白かった.こちらは問題作成の仕事等々を抱えていて,明日も朝から机上仕事.しかし,とりあえず来週から当面は規則正しいリズムになる.また,何とか一両日中に『解析基礎』の改訂版は作りたい.大枠はできている.また,考えたいこともいろいろできた.今日は金曜行動の日.こちらは授業.終わってからいつもの行きつけの飲み屋で食事をした.私の大好きなヒラメの刺身を食べていると,1人で老人が空き席をさがして入って来た.
「ここ空いてるで」ととなりの席をすすめる.
「おっちゃんどこの人?」
「沖縄」
「えっ.沖縄のどこ?」
「沖縄の北の端」
「いつ大阪にきたの」
「もう40年になる」
「そうか,そのころ俺も故郷を出たな.ところでいくつ?」
「80」
奥さんも沖縄の人」
「そうだったけれど早く死んだ」
「そうなんか」
「娘がいろいろしてくれる.息子はもう嫁はんの言いなり.お前子どもは?」
「男の子が二人や」
「そうか」
「ところで沖縄に墓はあるの」
「10年ほど前に作った」
「死んだら帰る故郷があるんや」
「沖縄はいったことあるのか」
「4,5年前に子どもに連れられていった.でも北の方までは行かなかった.沖縄式のあの墓を作ったのか」
「いや.あれは金がかかるんや.普通のや」
「そうか」.いろいろほろ酔いで話すうちについつい,
「もういろいろおもろかったし,生きてりゃすることも多いけど,でもいつ死んでもいいのや」とうなずきあう.
「そんなんにかぎってなかなか死なれへん.80までまだ長いなあ」.メールのアドレスを渡そうかと思ったが,
「メールもパソコンもわからん.携帯も娘が払ってくれている」というので止め.
「来週からはいつも水曜日の9時半過ぎにここに来るから」と言うことで先に出た.
大阪にある多くの人生の一コマ.それにしても,こうして人間が生きてゆくとはどういうことなのだろう.世界史と個人と.そのなかで人間が生きていくというのは本当にどのようなことなのだろう.私は道元の言葉「無限向上」を一つの指針にしてきたが,道元はうんと深いところで言っている.安易に無限向上は言われない.実際,人間はいつまでたっても愚かなことごとをくりかえしている.しかも人の人生は限りある.その上で,人間が生きるというのはどういうことなのだろう.その時その時出会った時代に,できることをしてゆく,ということなのだろうが,それにしても,等など,ほろ酔いの中でしみじみそんなことを考えさせられた春の夜だった.家に戻って,からすみをあぶって一杯やりながらこれを書いている.花海棠も何とかサクラも春爛漫.

  ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃 西行