『絶望の裁判所』を読む

三月である.小さい頃から三月は好きな季節であった.写真は5日追加.満開の桃の花.犬の散歩道.夙川上流,川沿いの遊歩道脇の民家の庭先.
『絶望の裁判所』(講談社現代新書)が2月20日に刊行され,これをさっそくKindle版で手に入れて読んだ.著者は元判事の瀬木比呂志さん.その章立ては次の通り.こに書いたそれぞれの章名にはさらに「ー」で結んで「その心は」とも言うべき言葉が添えられているのだが,それはぜひ読んで確認して欲しい.
はしがき 絶望の裁判所/第1章 私が裁判官をやめた理由(わけ)/第2章 最高裁判事の隠された素顔/第3章 「檻」の中の裁判官たち/第4章 誰のため,何のための裁判?/第5章 心のゆがんだ人々/第6章 今こそ司法を国民,市民のものに/あとがき 不可能を可能にするために
瀬木さんはは27日,日本外国特派員協会で記者会見した.その模様を田中龍作ジャーナル「絶望の裁判所」が伝える.その冒頭にあるように

司法の実態を知り尽くした元判事は日本の裁判所を「旧ソ連全体主義」に たとえる。「裁判官たちは収容所に閉じ込められている」と話す。収容所とは徹底したヒエラルキーに支えられた官僚体制のことだ。瀬木氏によれば、ピラミッドの頂点にいるのは最高裁事務総局だという。

結論として,日本の裁判官は最高裁事務総局の支配下にあり,徹底して現体制を守るために動いており,三権分立や法の支配はそれを覆い隠すための幻想に過ぎない.また田中さんがこの記者会見で質問されたくだりに「瀬木氏は米軍基地をめぐる裁判で米国大使館の大使・公使に情報を流していた最高裁判事の実名をあげ、『日本の司法は裏側で不透明なことをしている』と明言した。」とあるように,結局はアメリカの意向に沿って判決を下している.一言でいえば,裁判所とは原子力村を含む旧体制の用心棒である,ということだ.
本書の第6章に,精神的奴隷状態にある裁判官が,「どうして,人々の権利や自由を守ることができようか? 自らの基本的人権をほとんど剥奪されている者が,どうして,国民,市民の基本的人権を守ることができようか?」とある.まったくその通りである.奴隷であることを知らないのではなく,知っていてそれに甘んじるものが,どうして,人間の尊厳や基本的人権の意味を理解することができるだろう.これが日本の司法の現実である.
このような体勢を崩す合法的な枠組みでの方法は,最高裁判所裁判官国民審査有権者が一致して全裁判官に×をつけることだ.私はこれまでのすべての選挙でそうしてきたが,実際に×がつく割合は4〜10%程でしかない.何も書かなければ信任になる.それでもヴィキペディアに記事にもあるように最高裁はこの国民審査をいやがっている.万一×が過半を越えると,大変だからだ.
瀬木さんは「日本の司法はリフォームされなければいけない。」といわれる.つまり根本的に刷新しなければならない.しかしそれは,原子力村の解体と一体のものであり,近代日本,少なくとも戦後日本の政治支配体制の変革なしにはありえない.それでも,まさにその司法体制の内部にいた人からこのような告発本が出版されること自体が,旧体制内部の大きなひび割れを意味している.
瀬木さん自身が「旧ソ連が必然的に崩壊したように,それが内部から崩壊する時が,いつかはくるのではないかと思う」といわれる.必然であるなら,それを少しでも早く現実にする.その可能性はある.この書が出版可能である現在の政治情勢については考えるべきことが多いと思われるが,ともあれ,ぜひ若い人が手に入れて一読されんことを.
この本が出版されるそのことと関連があるかどうか.最高裁事務総局長官が定年前の辞任.最高裁の竹崎長官、辞任へ 任期途中「健康上の理由」.わずかの期間である.「健康上の理由」はほんとうかどうかわからない.彼は官僚中の官僚.官僚はほんとうは気が小さい.この本が引き金の辞任かも知れない.本が出ないように必死に手を回したはずだ.それでも講談社が出す.そこに時代の変化を読んでやめるのかも知れない.彼は小沢一郎民主党代表(当時)を政治資金規正法違反で強制起訴した「第5検察審査会」の諸々を仕切った人.本当にこの審査会は開かれていたのかという疑惑まである.一市民が斬るさん参照.いずれにせよ,安倍政府の後任人事によってまた何かわかるだろう.