日常のこととしての闘い

 今日は,SEALDs関西が行ってきた金曜街宣の一応最終回.ということで大阪駅北出口・梅田ヨドバシカメラ前の集会まで行ってきた.先週と変わらない人の出である.主催者が終わり頃に言っていた参加者は4500人.それくらいはいただろう.最初に神戸女学院の19歳の学生が喋った.姉さんは保育士.朝早くから働きに出て,帰ってくるのいつも遅い.ある朝彼女を抱きしめて,保育所に来ている子らが戦争にかり出されないように,あんたがんばってと言われたとのこと.それを話しながら,ここに来ている人々の後ろに、多くの人が同じ思いをしていることを,自分のこととして話していた.なかなかうまい.
 それを聞いてから,関電前でいつも一緒になる彼と,茶店に入っていろいろ話しをする.それからまた戻ると,福山哲郎民主党)議員が話す.この人は情熱的に話すが,喋り方はうまくない.気持ちが伝わるが,中味はもう一つわからない.それでも、この問題に出会って、議員以前の人間として、何か考えるところがあり、大きく飛躍したことはよくわかる.福山がんばれコールが起こる.それから辰巳孝太郎(共産党)議員.こちらは話がうまい.集団自衛権を認めた閣議決定を取り消し,安保法制を廃案するための連合政府を作る.この一点で団結しよう.そして当面の参院選では同じ立場の候補者がかぶらないようにしよう.これを話していた.それはその通りである.今日は民主党と、週明けには社民党、生活の党と話すと言っていた。
 共産党は,どうも安倍政府が共産党潰しを狙っていることをつかみ,それで態度をこのように固めたのではないか.それが茶店で話したときの彼の意見である.そうかも知れない.共産党自衛隊内部の反対派,おそらくは陸自のなかのある部分と繋がりがある.海自主導の今の自衛隊にとって邪魔である.これをつぶせと安倍が考えている.それをつかんだのだろう.ファシズムはまず共産主義者をつぶす.今の日本共産党共産主義の党かどうかは議論が分かれるが,自衛隊内部の反対派とつながりのあることはまちがいない.共産党に対し,ファシズム安倍政府がその潰しを狙っていることはその通りだろう.自分がつぶされるかどうかというところに来てようやくである.前の都知事選でこのようにしていれば安倍の暴走はもう少しおさえられたのに.しかし歴史に「もしも」はない.ここからはじめるしかない.
 SEALDsの人が最後に,闘いははじまったばかりだと,いろいろ話し,そして集会は終わった.実際,この闘いは,時間のとり方によるが,100年は続く.つまりは,帝国アメリカが衰退し崩壊し,その後の次の時代の枠組ができるまで様々に断続もしながら,それでも続く.目前のこととあわせて,一方でこのように考えることも大切だ.だからこの闘いはわれわれの日常なのだ.若い人らもまた,この闘いのなかで,自分人生を見直し,生き直してゆくだろう.40年前にもそんなことはあったし,それが今と繋がっている.
 そういえば昨日,ベ平連の旗に出会った.仕事の前に三宮の,神戸の人らの街宣にゆく.まず,Y中さんがビラ配布をやっていたので,これを手伝う.彼のもっていたビラを半分受け取るとき,お互い,もういちどこんなにして同じことをするとはなあという思いがよぎる.彼の顔にもそう書いてあった.かつて同じ組合の役員として,いろいろ一緒にやった.それから30年.別々の道を歩んで来て,またこうして一緒にビラまきである.
 その街宣のところに,「ベ平連」の旗が立っている.きけば30年以上,六甲にある学生センターに眠っていた旗だそうだ.それがこのたびの行動の中で再発見.こうして掲げられている.この旗は,先日うつぼ公園での集会にも来ていて,デモの最後の辺りで,旗をもっていた人と歩きながらいろいろ話した.その人と昨日は話しできなかったが,Y中さんは同じ人だという.神戸でかつてベ平連をやっていた人もまた,こうして再び出会うのだ.
 人はこの世に生まれて,そのときどきの歴史のなかで,歴史の求めることに対して,なし得ることを精一杯おこなって,そして次代にその生を引きついでゆく.そういうものである.つくづくとそう思う.そのように生きることがわれわれの日常である.人生である.闘いはこの時代の日常なのだ.その場において老いも若きも心を一つにする.これがわれわれの民主主義である.ようやくにこんな事を考える時代になった,などなど考え戻ってきた.