春の盛りに

 ドイツから戻って2週間が過ぎた.日本から見れば北国のドイツ中部,そこから一気に春のなかに飛び込んでの2週間だった.春期の授業をすべて4月に回してもらっていたので,それをこなし,また原稿作りも遅れていたのをとりかえすために時間を見つけて考え,そして地元の諸々のことごとが重なり,まったく休みなくほんとうに忙しかった.
 この10日の日曜日は地元の公園で自治会の花見会をした.まさに花曇り,寒くなく日照りも強くなくて,散りはじめた桜のもとでの懇親会となった.尺八を吹いてくれる人,昔話を語り聞かせる人などいて,桜の花びらの中,ひとときの風情にひたっていた.
 そして翌日の雨で桜も散り,花海棠(左上)も終わった.射干の花(右上)はまだ当分咲き続ける.藤が芽をふくらませ,またバラも咲き始めている(左下).こうして季節はうつる.土曜日の自治会総会の議案書の作成も終わり,原稿仕事も一式送信して,一段落である.
 この2週間,拡大を旨とする資本主義の時代がいよいよ崩れはじめたと考えざるを得ない現象が続いている.アメリカ大統領選挙を通して,アメリカが,立て前としての理念さえ,もう失っていることをさらけ出した.言っていることはトランプ候補の方が現実を踏まえている.共和党茶会派の候補やクリントンは,これまでの世界の警察となることで軍需産業が巨大な利益を得てきた体制に,その現実が崩れているなかで,しがみつこうとしているように見られる.
 そして,それ以上に理念を失っているのが,日本保守政治とその経済政策である.日本の株はもはや市場の原理では動いていない.午前中年金をつぎ込んで株価を上げ,午後売り浴びせられて下落.売ったのは,ファンド,いいかえれば軍産複合体の金融部門.言いかえると,日本国民の金融資産そのものである年金原資をそっくり軍産複合体に貢ぐ.これが続いている.
 現代が大きな歴史の転換期であることを,メルケルプーチンもあるいはオバマも,それぞれの立場で認識し,そのうえで,どのように進むのか,それぞれが立脚する立場で考えている.この認識がないのが日本首相の安倍である.このままでゆけば,日本が引き金となって再び大きな経済の崩壊の時がこざるを得ない.かつて帝国主義の時代に,非西欧で最初に資本主義を導入し,そして軍国主義帝国として侵略戦争をおこない,そして敗れた日本が,それを教訓とすることができずに,そしてまた,二度の原爆と福島の核惨事を教訓とすることができずに,再びの道を歩みはじめる.今日の条件の下では,いずれそれは崩壊する.それは資本主義の終焉を現実に告げる出来事となるだろう.
 私は,この転換期の意味は,経済を第一とする段階から人間を第一とする段階への転換と考えている.経済は,人間が尊厳をもって生きるための方法であり手段であって,それ自体が目的となることはあってはならない.資本主義は終焉する.その意味は,人間が資本主義を手段として使うということである.資本主義を使う人間の登場,それが南欧の人々の闘いであり,99%を標榜する占拠運動の人々であり,日本の新しい若者の運動である.彼らにまだその自覚と目的意志はないにせよ,客観的にはそれが歴史の求めることである.
 昔のように,党がありそのもとで労働者が闘いという時代はもう終わっている.一人一人が,自分は何者かを問いながら,その場でなし得ることをする.そして現代の情報技術を駆使して,それが横につながり,世を動かす.日本もドイツもそういう時代に入っている.
 ドイツにいる間に,ギーセンという町にある数学博物館(右下)に行った.数学の裏付けのある子供むけの遊具が各階にあるということであるが,それを見ていて,いろいろ考えさせられた.それもあって,青空学園のいくつかの制作物を増訂したい.そう考えるようになっている.何とか規則正しい生活を取りもどして,毎日少しづつ積みあげたい.そう考えながらなかなかできないのであるが,やはりこのように数学という普遍性を日本に根づかせようとしてきた人間,この自己の土台に立ちかえって,これからもやってゆきたい.