杉田議員の差別発言

 7月も末となった.昨日28日は忙しかった.この日は地元の夏祭りの予定であった.これまでは大池公園の端の広場でやってきたが,人が増え狭くなって,今年からは小学校の運動場でやることになった.小学校での警備なども初めてのことで,いろんな人が力を出しあい,ようやく25日の朝には祭り太鼓のやぐら立ても終わっていた.
 そこへ台風12号である.朝の8時から会場設営がはじまるのでそれまでに結論を出す,ということで朝の7時に実行委員長や副委員長が集まり協議,中止を決めた.1日順延も難しいと結論した.28日の朝にはまだ警報は出ていなかったが,午後4時前に暴風警報.29日は昼頃には日も出たが,突然の通り大雨が2度あり,何とか開催したいという思いもあったが,やはり中止の結論はそれでよかった.これまでのことは,2013年:夏祭り,2014年:梅干しと夏祭り,2015年:8月の初め,2116年:夏の盛りにに書いてきた.去年はドイツにいて手伝えなかった.
 今年中止にしたのは,残念だが台風は仕方がない.昨日はそれから,やぐらの片付けを終え,昼前ににいったん解散.夕方5時からの打ち上げ会までの間,梅田に出た.電気店に用があったのだが,午後3時からの杉田水脈議員の辞職を求める大阪緊急街宣にも参加しようと思った.もとは午後5時からの予定であったが,台風を考慮,3時からに変更されたのである.急なことではあったが,およそ200人が,梅田北のヨドバシカメラの向かいに集まっていた.
 28日は東京でもあった.杉田議員の辞職求め、自民党本部前に5千人 「私には自由に生きる権利がある」特別な1日さんの27日に詳しい.大阪でも多くの当事者が訴えていた.それにしてもあの杉田議員の差別発言である.生産性という経済概念を第一とすることで,人が人であることの尊厳を踏みにじり,そのことに気づくこともできない.いや,わかっていてあえてあの差別発言をしているのだ.この発言はアベ政治そのものであり,自民党憲法改定の方向そのものである.国会議員という公の立場にあるもののこのような発言は,まさに差別糾弾闘争の対象そのものである.差別国家に対する人民の糾弾闘争,その段階に至っている.
 1970年代,役所や議員の差別発言に対しては,必要なら役所に座り込んだり当事者のところに押しかけたりして,差別発言を生み出した組織の責任者に対して,発言がいかに差別であるかを当事者が己を語って訴え,そうだったとわかり自己批判し,組織が変わってゆくまで続けた.こうして阪神間の行政はいくらかは変わったが,そのなかで西宮市は昔のままの古い役所の体質である.そして杉田議員はこの西宮市の職員の出である.
 そういう糾弾闘争のいくつかの末席にいたものとして,政治が国家権力もうごかし差別発言を逆に利用して支持者を集めるような今の状況を何とかうち破りたい.差別発言を生み出した組織は今のアベ政府そのものである.田中龍作さんが,「杉田水脈が選挙応援に呼ばれる理由 自民党の高等ネット戦略」で書いておられるように,情報技術が変われば,それに対応して,闘い方も変えてゆかねばならない.その点で言えば,これまでのところ,向こうの方がはるかに上手である.しかしこれは必ず行き詰まる.根底には資本主義の閉塞という客観的条件がある.その終焉を少し遅らせても,限りがある.終焉を少しでも先に延ばすために,杉田発言も逆に利用する.しかし,それはながくはもたない.
 それでも,新しい時代を生み出してゆくために,こちらにも戦略がいる.かつて,時代の背景はあったが,部落の親の子の教育にかける思いや,在日の朝鮮の人らの怒りが,一気に噴き出して,北摂阪神間のあの時代をつくり,それを受けとめたものらが次の時代をひらいていった.大きく言えば豊中市の木村議員もそんな流れのなかの人である.教育分野では,自分自身の教育理念の問題として受けとめた教員らの運動が解放教育運動であり,私の場合,それが結局は自分の生き方を定めてきた.その一端は『A高校における障害者解放教育』に書いている.そういう時代の智慧に学び,今日の条件の下でどうしてゆくのか.いろいろ考えるべきことは多い.