声をあげねば変わらない

 昨日は第4土曜,定例の梅田解放区の日であった.夕方5時半に大阪北の中津の豊崎西公園に集合し,集会をおこないそれからデモに出る.阪急線沿いに梅田の茶屋町を通って,JRのガードをくぐり,ヘップファイブ前まで歩いて,そこでいつものように声をあげる.

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  マイクをもった若い人が「声をあげねば変わらない」と語っていたが,その通りである.そのように考えてここに来る若者がいることは嬉しいことだ.
 しかしまた,東梅田でやっているわれわれの目の前を,多くの若者が何ごともなく楽しそうに語らいながら,通ってゆく.現代日本アベ政治の状況が悲惨ともいうべき酷いことになっているのに,どうして若者は声をあげないのだ.
 高野悦子「二十歳の原点」案内六・一五御堂筋デモにもあるが,かつては御堂筋を埋めつくす若者のデモがあった.日本の状況はあの時代よりもはるかに酷い.民主主義の原則そのものが崩壊している.雑誌『月刊日本』六月号で宮崎学さんが「突破者の遺言」を次のように締めておられる.

 この国が変わることはない。少なくとも内在的な要因で変わることは絶対にない。計算外の外在的な原因で変わることはあるが、それは権力者の顔が変わるだけで、民衆が変わることはない。彼ら、常民は永遠のうやむやの中に生きている。
 しかしそれももう限界に達している。もはや米国も含めて日本は喰い物にしか見られていない。コロナで唯一の国力である経済力もガタ落ちする。このままでは国が滅ぶだろう。いっそ滅びればいい。鬼が出るか蛇が出るかは知らないが、その先に何かあるだろう。この国に希望があるとすれば、その先にしかない。

  まったく同感である.六月下旬,少し時間をとっていろいろ考えた.それを『転換期の論考』のなかの「根のある変革」とまとめ,そのなかで

 日本という世は、いずれ行きつくところまで没落することは避けられない。既存の価値観、つまりは資本主義的価値観において徹底して没落する。そのところにおいて、異なる価値観のもとにしか再生はありえない。それは、資本主義の終焉から次の段階を拓くという課題の、日本におけるあり方そのものである。

と書いた.このもとになっている『根のある変革への試論』はまだまだ世に受け容れられてはいない.そのこともわかっている.没落しきったそのところで,こちらが何を言ってきたか気づく人がいるかも知れない.それもしかたなく,それでもよいと思う.私は,先の「根のある変革」を

私は自らの力においてなしうることはした。青空学園がいつまで存在しうるのかは不確定であるが、次の世代で引きつぐものが現れることを願っている。

と〆めたが,これは正直な気持ちである.と同時に,することはしたと言えるのかとも自省する.日本近代をとらえ直し,そこにある問題を掘り下げ,次の時代を準備する.実際,できることはしたとも思うし,まだまだだとも思う.根幹のところは考えた,しかしそれにとまらず,できるかぎりこれを具体的なことにあわせて展開していかねばならない,と考える.
 青空学園を残したいとは思う.こんなことを考えていた人がいたのだ,と思ってくれる人が現れるまで,残したい.しかしそれもわからない.280人の人が青空学園のすべてをDVDRに焼いたものを入手してくれた.それが将来に伝わってくれればうれしい.

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 こんなことを考えながら,時間のあるときは犬を連れて満池谷の墓地を歩く.1時間は歩くようにしている.120,486m² で  9200区画という実に広大な墓地である.古い墓石には江戸時代の年号が刻まれている.江戸時代,ここは原生林の大きな林であったのだろう.ここに墓地が作られていったのだ.ここは私にとって,歩きながら考えるところになっている.