六十五年目に

nankai2010-08-08

今日いちばん心を動かされたのは原爆直撃「私の身代わりに…」長崎の女性、遺族と対面 と題する朝日新聞の記事だった.読んでみてほしい.弟を原爆で失った女性の65年目に描いた絵が,自責の思いをかかえてきた女性をひきつける.戦後の人生がそこで出会った.いろいろなことを考えさせられる.
1945年8月6日広島と8月9日長崎への原子爆弾アメリカは今もこれらの空襲を「戦争を早く終わらせた」と正当化している.実際はこのときすでに日本は7月26日に発せられたポツダム宣言を受け入れることにしていた.原爆は,もっぱら戦後の世界支配を見越して,ソ連に対してアメリカが軍事的に優位な立場に立つためになされた.日本側もまた,天皇制を残すために最後の駆け引きをしていてポツダム宣言の受け入れが遅れた.日本が敗戦を受け入れたのは原爆を投下されたからではない.天皇制を残すことについて見通しが立ったからである.『魂鎮への道−BC級戦犯が問い続ける戦争』(飯田進著,岩波現代文庫,2009)を読むにも書いたが,「急速に冷戦の時代になり,アメリカは天皇を免罪して日本統治に活用する方を選んだ」.天皇制を残すためにポツダム宣言の受諾が遅れ,そのためアメリカに原爆投下の時間を与えてしまった.8月5日までに受諾していれば,原爆もソ連参戦もなかった.これは客観的な事実である.
アメリカと日本の支配層の大きな政治のもとで,実に多くの人々が空しく死んでいった.小田実は中学生で1944年3月13,14日の大阪空襲を経験し,多くの人々が死んでいく事実からその思索と行動をはじめた.この死は何なのか,である.このような死を難死と定義し,それを『「難死」の思想』 (岩波現代文庫)にまとめた.一昨年の夏広島に行ったときにも書いたのだが ,原爆は実際に使われた最悪の大量破壊兵器である.今年も原爆についていろいろな報道がなされた.多くは原爆を自然災害のように描いていた.それは違う.それは戦争犯罪であり,アメリカと日本の支配層がひきおこした惨禍である.そのことを忘れさせる描き方はすべきではない.そしてまた,イラクやアフガンや多くの地で,今も難死は続いている.それと日本がどのようにつながっているのかを考えるものでなければならないはずだ.そういう企画には出会わなかった.
敗戦処理の過程で,天皇とそれを担ぐ官僚は自ら責任を負うのではなく,臣下の軍人を戦犯として差し出し,国民の犠牲のうえに,自らはアメリカに命を乞うて皇統を守ろうとした.2007年7月になくなった作家の小田実はその小説『玉砕』(岩波書店、2006/09/08)の前書きでいう.

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この事実(敗戦処理過程)で私が強い怒りをもつのは、ここには期せずして日本とアメリカ、二つの国家の国家権力の結託があるからだ。その結託の中心に天皇があり、天皇の「生命乞い」がまぎれもなくあった。 この結託の事態で怒ったのは私だけではなかった。フィリピンのミンドロ島の戦闘で辛うじて生きのびたあと捕虜になってレイテ島の捕虜収容所にいた大岡昇平も怒っていた。彼は八月一一目に日本のポツダム宣言受諾を知ったのだが、そのあとの日本政府の正式受諾までの数日間のことを『俘虜記』のなかで次のように書いていた。 まず「私は『星条旗』により日本の条件が国体護持であることを知って失笑を禁じ得なかった。名目をどう整えようと、結局何等かの形で敗者が勝者の意のままにならねばならぬのは同じことである。彼は収容所で親しくなった米兵ウェンディに言った。「私はこの条件が日本軍部の最後の愚劣であることを認めるが、幸いに貴国の寛大がそれを容れられんことを望む。」そうウェンディに言ったと書いたあと、大岡はつづける。「十二目、天皇の権限が聯合国最高司令官の制限の下におかれるという条件付きで、国体が護持されたことが伝えられた。今度は日本政府の寛大を待つ番になったが、私は結局軍人共がこれを容れることを信じていた。」 しかしヽ大岡のこの期待は裏切られた。日本政府はなおも正式受諾をしぶった。ウェンディが「我々は日本政府が一目も早く回答することを望むね」と彼に言った。「十三日の『星条旗』は日本の回答の未着を同じ焦燥をもって報じていた。ウェンディの質問に対し、私は日本の戦争犯罪人が自己の生命と面子のためにで天皇を口実に抵抗しているのだろうと答えておいた。」「十四目の報道はさらに悪かった。『星条旗』の調子には威嚇が籠もって来た。満洲で依然ソヴィエット軍が日本車を砲撃していること、ニミッツの艦載機が「日本の決意を促がす」ために、各都市の爆撃を続けていることを報じていた。」そう書いた上で、さらに彼は書き記していた。「私は憤慨してしまった。名目上の国体のために、満洲で無意味に死なねばならぬ兵士と、本国で無意味に家を焼かれる同胞のために焦立ったのは、再び私の生物学的感情であった。」「天皇制の経済的基礎とか、人間天皇の笑顔とかいう高遠な問題は私にはわからないが、俘虜の生物学的感情から推せば、八月十一目から十四目まで四日間に、無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である。」 私も大岡同様に、八月一四目午後の大阪空襲で「無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である」と、彼同様私も「天皇制の経済的基礎とか、人間天皇の笑顔とかいう」、あるいは、これは大岡でなく私小田が言うことだが、日本文化の伝承者として天皇天皇制という存在がいかに垂要なものであったかというような高遠な問題は私にはわからないが」、八月一四目の大阪空襲のなかで「無意味に死んだ人達」のひとりになり得た人間の「生物学的感情から推」して考える。

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飯田さんは先の書で,「戦争を指導した連中は、昭和天皇が責任を追及されないなら、おれたちだって免責だと考えてしまった。日本の倫理的な腐敗がそこから始まったと思う」といっておられるが,ここに日本の官僚の腐敗の根源があると思う.日本の官僚はジグソーパズルを解くのはうまいが,歴史を見通す力はない.そして歴史をおさえた政治家が出てくればそれをそれを引きずり下ろすことに汲汲とする.清朝末期に似ている.それが現下の情勢である.
写真はカブトムシ.夙川上流の土手の木立にいた.この辺りはまだ天然のカブトムシがいる.焦点はあっていないがカブトムシであることはわかる.八月八日夕方.